2000/4/9 作成

備後落合駅 

中国山地の深い山中にある交通の要衝 “備後落合駅” だが、やってくる列車には乗客は居ない

      

芸備線から木次線が分岐しているため、立派な駅舎が建ってはいるが、今となっては寂しい無人駅だ。 

      

木次線の最終列車が到着。程なくエンジンは停止され留め置きになる。  待合室内部は駅寝に最適な環境かも?

    訪問日記  2000年3月18日訪問

  ここは、地図上で見る限り、中国山地の山中にあるローカル線が分岐している、街の駅と想像する人もいるだろう。ところが、実際に行ってみると、周囲の人家や商店は
 廃屋ばかりで人通りも無い。何故このような姿に変わり果ててしまったのか、単に過疎化というだけでは説明が付かないほどの変貌ぶりに、暫し身動きが取れなかった。
 確かに以前は交通の要衝として、多くの職員が務める有人駅であり、大そうな賑わいを見せていた。さらに売店では名物の「おでんうどん・そば」なども売っていた筈だ。
 しかし、駅は無人化されて久しく、往年の姿を想像することすら困難になるほど寂れてしまった。それでも、駅舎は当時の姿のまま残り、待合室には“駅ノート”もある。そ
 のノートには、ここを訪れて行く人々によって、往年の賑やかな情景がまことしやかに綴られていたのであった。
 
 ちなみに私事だが、この駅に小学5年生の時分、木次線から芸備線へ乗り換えのために訪れている。ここで、当時訪れた話を少ししようと思う。待ちに待った夏休み、“鉄
 小僧”だった私は、既にローカル線にも熱が入り、旅行計画から宿の予約までの全て手配しまうほどになっていた。こうして旅行好きの母親と山陰地方へ“山陰ワイド周遊
 券”を使ってローカル線めぐりへ出発した。中国山地のローカル線で縫うように進み、木次線は途中駅である木次で宿泊。翌日に出雲坂根の3段スイッチバックを経て、この
 備後落合駅にやって来た。ここで芸備線に乗り換えて三次方面へ向かうが、乗り継ぎ待ちに2時間あったので、夏の暑い昼下がりに駅前の西城川に入って、ちゃっかり川
 遊びをしていたのであった。当時、近くに旅館や商店などもあり、それなりに街を形成していたが、あまりに普通の風景にしか映らなかったため、特に印象に残るものでは
 なかった。

 さらに当時は、陰陽連絡のDC急行「ちどり」が複数あり、しかも一往復は夜行で運行されていた。当然、深夜にこの駅で方向転換をしていたため、駅員も常駐していたに
 違いない。この土地に所要のある乗客が、近くの旅館で明け方まで仮眠を取っていたという逸話も残っている。こうして降り立ったいま、昔の旅行の情景を思い出すには、
 夜間のため、今一つ実感が湧かない。次回は明るい時間に訪問したいと思いながら最終列車に乗り、今夜の宿となる“内名駅”へ向かって行った。