2001/08/16 作成

波田須駅

紀勢本線 “波田須駅” 両側をトンネルに挟まれているこの駅は、俗世間から隔絶された長閑な空間が広がっている

  

駅は高台にあり、集落はここより上に存在する   太平洋を望む絶好のロケーションは風光明媚といった言葉が良く似合うほど素晴らしい

    訪問日記  2001年8月5日 訪問

  紀伊半島をぐるりと一巡する紀勢本線。急峻なリアス式海岸が続く三重県側の非電化区間には、かつて陸路に交通路がなく、海からしか到達できない集落も存在した。
 やがて鉄道の開通によってこうした集落どうしがトンネルで結ばれ、大都市などの外界へもつながった。この波田須もこうした集落のひとつで、10軒ほどの人家が立ちは
 だかる斜面へ貼り付くように点在している。どの家にも柚子の木が植わり、南国情緒の豊かさを見せる。駅は複雑な地形を反映するかのようにトンネルに挟まれ、一面一
 線のホームに雨除けの庇しかない簡素な造り。木々が覆う駅前には公衆電話と郵便ポストという、前時代的な通信インフラこそ完備されているが、携帯電話の電波は微
 弱なものであった。かような辺境の地であっても、「はだす」という地名には、歴史的に深い意味がある。中国が秦(しん)と呼ばれた時代、始皇帝の命を受けた徐福は、不
 老不死の妙薬を求め航海へ出た。しかし、途中で嵐に遭い、この地へ志半ばにして流れ着いた。遠い異国人の彼を地元の人の手厚い看護を施し一命を助けた。やがて
 回復した彼は帰国を諦め、その恩に報いるように土木や農耕の技術を伝えた。以来ここは、秦(はた)の人が住(す)む地とされ、これが地名の由来になったという。後にここ
 に没した彼の墓は、「徐福の宮」として多くの旅人が訪れるようになった。しかし、歴史上に登場する徐福という人物には諸説あり、中国、韓国、そして日本の各地に伝説
 が残るため定かではない。けれども司馬遷の史記には、3,000人の若者と多くの技術者を従え、五穀の種を持って東方へ船出したとの記述がある。これを同志の一人と仮
 定すれば、遠からず符合するものではなかろうか。

 今回私はこの駅は、青春18きっぷ2枚を使って延べ10日間で行く「日本一周秘境駅訪問旅」の途中に立ち寄ることにした。昨晩、東京から夜行快速「ムーンライトながら」に
 乗車した私は、ロクに睡眠を取ることも出来ず、眠い目を擦りながら、早朝の名古屋駅へと降り立った。ここで始発の関西本線に乗り換え、さらに亀山から紀勢本線に乗り
 継いで行った。途中、多気では15分ほどの乗り換え時間に駅前の商店で弁当を購入。さらに途中の紀伊長島や尾鷲で10分以上の長い停車時間を繰り返しながら、ようや
 くこの波田須駅に着いた。だが、ここに着いた途端に激しい雨が降って来て、ドアが開いた瞬間には庇の付いた待合所へ避難する始末。しばらく動けなかったが、小雨に
 なったタイミングを見計って周囲の探索を開始した。急傾斜の歩道を登って行くと海の景色は一層広がり、適度な運動との相乗効果なのか、とても清清しい気分になれた。
 その後、普通列車で隣の新鹿駅へ一駅だけ戻り、この時期だけ臨時停車する特急「ワイドビュー南紀4号」へ乗車し、新宮駅まで先を急ぐことにした。快適なシートに身を
 委ねながら通過していく駅を観察していたが、トンネルを出た瞬間にチラリと見えただけで、またもや漆黒の世界へと吸い込まれて行った。