2000/5/14  作成

真幸駅

肥薩線“真幸駅” 山間にあるスイッチバックのこの駅は、旅人を和ませる雰囲気を持っている

        

古びて良い味を出している駅舎は、旅人を優しく迎えてくれる       幸せの鐘と駅名標は真幸駅における定番カットである

        

駅終端の車止め   昭和47年の大雨による土石流災害で、ホーム上の岩は当時の置き土産だ

  訪問日記   2000年5月10日 訪問

  ここは同じ肥薩線にある“大畑駅”とともに、現役のスイッチバック駅として知られている。類に漏れず山深い場所にあり、周囲に人家は4〜5軒程度しかない。
 さらに明治44年の開業当時の木造駅舎も残も手入れされながら現役である。待合室には駅ノートが備え付けられてあった。書きこみを見ると、同名の「真幸」と
 いう名前の方も訪れていることが判る。遥々遠くの地からやってきたのだろうか、さぞ感慨深かったに違いない。こうして、訪れる人が「真の幸せ」を願い、ホーム
 にある「幸せの鐘」を鳴らしていく。その透き通った音色が山間に響き渡り、手を併せながらささやかな幸せを願っていく。

 しかし、駅の道のりには悲しく暗い過去がある事を申し上げなくてはならない。終戦直後となる昭和20年8月22日、吉松駅を発車した多くの復員軍人を乗せた列
 車が、「山神第2トンネル」内で急勾配を上がりきれずに立ち往生してしまった。煤煙に巻かれた乗客たちがたまりかねて次々にトンネルの出口へ向かって歩き出
 していた。一方、煙に巻かれた乗務員も煤煙に苦しみながら、坂を登れないと判断して列車を後退させてしまう。そのため、線路上を歩いていた人が次々に轢か
 れてしまった。こうして53名という尊い命が奪われるという、前代未聞の惨事が起きた。戦場で生死の間をさまよい、ようやく家族親類の待つ故郷へ帰れると期待
 を胸に膨らませていた矢先、これほどの失望感があって良いものだろうか。事実、この山神第2トンネルの入り口には復員軍人の殉職碑が建てられ、半世紀以上
 も経った今でも人の話し声が聞こえるという。

 さらに、昭和47年の大雨では大規模な土石流が発生し、附近の民家を巻き添いにしながら大量の土砂で埋まってしまった。甚大な被害によって真幸駅の一帯か
 らは人々が去り、成す術もなく秘境駅となってしまった。当時の災害を知る置き土産というべきか、ホームには重さ8トンにも及ぶ巨岩が残され、災害の凄まじさを
 感じ取ることができる。こうして、将来を奪われた若者たちの鎮魂と不遇な歴史を繰り返すことの無いことを願い、ホーム上に幸せの鐘が作られたのである。私も
 僭越ながら鐘を鳴らしてみた。透き通った音色が山々に響き渡った。余韻が続くまで目を閉じ、ささやかな幸せを願うのであった。