2013/03/01  更新  只見線・田子倉駅 2013年3月16日のダイヤ改正で廃駅


このページは、当ホームページで取り上げつつも、残念ながら廃止されてしまった駅を紹介するページです。 
利用者の少ない秘境駅というものは、こうした運命を少なからずはらんでいるものですが、
永年に渡り数々の人々を見守ってきた駅へ、感謝と追悼の意味を込めて紹介して行きます。 

           File: No.1 樺山駅   2001年3月31日 下北交通の路線廃止により廃駅となる。
                           (2000年11月30日で冬季閉鎖のため事実上廃駅)

  下北交通 「樺山駅」 冬季閉鎖のこの駅に、利用者を望むべくも無い… 
 

   

        古い駅舎はお色直しをされてはいるが、中は荒れ放題である  駅正面は背丈ほどの雑草で埋っていて物凄い状況!  旧国鉄キハ22が現役で活躍する  

  訪問日記  2000年7月21日 訪問

 下北交通の「樺山駅」は、冬季閉鎖で12/1から翌年の3/31までは全ての列車は通過となる。 駅の周囲に人家は見えないが、200mほど草生した軽トラがやっと通れるような道を
 上がっていくと、国道沿いの集落にぶつかる。 しかし、その数少ない住民からも完全に無視された形で駅舎はご覧の通り荒れ放題。  待合室はガラスの無くなった戸があるだけで
 内部は砂埃で酷く汚れており、しかも天井裏に蜂の巣(アシナガバチ?)があるらしく、電灯が撤去された跡の穴から頻繁に出入りしているという真に危険な状況であった。
 そして、駅正面は背丈ほどに雑草が生い茂っていて、人が通れる道は全く無い。 結局正面は林にぶつかるだけなのに駅名標が掲げられた駅の玄関があるという何とも不可解な
 雰囲気を醸し出していた。
 
 ここで残念な報告をしなければならないのだが、この路線は2001年の3月に廃止となる予定であり、更に先に述べた通り冬季閉鎖のため、今年の11/30で事実上の廃駅となってしまう
 ことだ。 そんなことを察知してか、遅れ馳せながらこの駅にも駅ノートが設置され、私も書きこみを行ったのである。
 やがて、大畑行きの列車がやってきて乗車しこの駅を後にした。  路線が廃止になっても何となく取り壊されずにひっそりと林の中に残っていて欲しいと感じながら、旧国鉄で活躍
 していたキハ22改のキハ85は、エンジンを唸らせてゆっくりと加速していった…

  駅の近況 
 2001年5月現在、駅舎はまだ現存しているようです。 但し、ガラスは割られ無残な姿をしているようですが、今後も駅舎だけは是非残して欲しいと思います。


     File:No.2  芦川駅   2001年6月30日 利用者僅少(皆無)ため廃駅となる。

宗谷本線 「芦川駅」 雪に埋もれたこの駅に停車する列車は数少ない…

              

              ホームは乗降する部分のみ除雪されていたので、僅かながら利用者が居るのであろう。  1両きりのキハ54は、今日も北の果てを果敢に走る。  

 
訪問日記   2000年12月31日 訪問

 この芦川駅は、宗谷本線の幌延より先の部分に位置しており、周囲には“サロベツ原野”という荒涼とした原野が広がっている地域にある。 国道40号線には近いが、流石に
 ここまで来ると交通量はたかが知れており、車は時折通るだけで、至って閑静な雰囲気を保っている。 駅は写真の通り、貨車(車掌車)改造のもので、内部に長椅子があって
 駅寝は比較的しやすいと思う。  周囲に人家は国道に出た所に一軒だけ存在するが、現在住んで いるかどうかは不明である。

 今回の秘境駅訪問旅の前半は、宗谷本線の秘境駅をターゲットとしており、まず先ほど訪問した「南下沼駅」から列車でやって来て降りた。そして15分程度で隣の兜沼駅で
 交換した列車に乗車し、折り返して隣の「徳満駅」で降りることとした。 少ない滞在時間であったが、この駅を訪問するチャンスはこの朝を逃すと、どれも無駄に時間を過ごす
 組み合わせとなるため現実的ではない。 また隣駅までの距離も結構あるため駅間歩きも辛いものがある。
 そんな少ないチャンスを何とか活かしながら、これから数々の秘境駅訪問を実践して行った… 


File:No.3   上雄信内駅    2001年6月30日 利用者僅少(皆無)ため廃駅となる。



夕暮れを迎える「上雄信内駅」 今日は久々に人が来た…(私)

              

   駅までの道路が無く、辺りは私有地の牧場の為に行き場も無い。  駅ホームは除雪が全くされておらず、最初の足跡は私が付けた。         

            

狭い掘建て小屋のような待合室。 内部は暗く、居心地を求めてはいけない。  そして駅ノートがあり、最終の書き込みは10/31であった。

  訪問日記  1999年12月10日 訪問

  この駅は、なんと歩道・車道も一切道らしき物が無く、しかも目の前は牧場の私有地で行き場が全くない。結局のところ危険ではあるが、線路を歩いて行くしかないという、
 何とも不可解な駅である。 駅の待合室は写真の通りで呆れるほど質素で小さくそして狭い。 そして駅ノートがあり、道内はおろか全国の“私みたいな物好き”達? の憧れの駅
 であり、通過する列車も多い為、プラン作成から試行錯誤を重ね、やっとの思いで辿り着いたのである。 そして、短いホームは除雪が全くされておらず、列車から降りた私は膝下
 ぐらいまでズボッとはまり込んだ。
 
 駅の周囲には人家らしきものは殆ど無く、遠くにチラリと農家が見えるのみである。 この駅の存在価値は無きに等しいが、この大いなる無駄こそ私のような秘境駅訪問家には
 たまらない魅力と成り得るのである (一般人理解不能…)。
 そして、道が無いので仕方なく隣のこれまた秘境駅である「糠南駅」まで線路内を3.5Km歩いて行く。 線路の際より中の方が雪が浅くて歩きやすい。 暫く行くと途中昭和13年位に
 建てられたらしい朽ち果てた「殉職碑」があり、  不気味さを放っていた。(何があったのだろう?) 線路から眼下に氷結した天塩川を見渡し、北の大地をスノートレッキングと
 洒落込んだ。 >良い子は線路で遊ばない (^^;


                                                                    

  再訪しました。 2000年12月31日 再訪

  さて、今回私はこの駅に再訪を果たした。 稚内から乗車した普通列車はこの駅に停車しないため、隣の雄信内駅で下車して、歩いての訪問となった。 線路上を歩行すれば、
 およそ2.2km程度でものの30分も歩けば着いてしまう距離だが、  途中に“下平トンネル”という1556mもある比較的長いトンネルが控えている。 そのため、これを迂回しての
 訪問となり、およそ3km弱は歩いたと思う。 その迂回した道の一部は、天塩川の水害によりトンネルを含め、線路の付け替えとなったため、実にそれが出来る前の旧線跡であった。
 現在でも当時の鉄橋がそのまま道路として使われており、一種独特な雰囲気がある。 (写真を撮り忘れました…) そしてトンネルの反対側まで周りこんで行くと、人家(牧場)が
 2〜3軒あってその脇から線路へと雪の中を突き進んだ。
 確かそこは私有地だったと思うが、幸い怒られることもなく、無事に駅へと辿りつけた。 ただ、物凄い大雪がふっていて、しかも意外に気温が高かったため、雪が融けてビショビショ
 になってしまった。 そのため写真を撮るのが非常に辛く、そそくさと、あの暗くて狭い待合室へこもってしまった。 

 しかし、駅に着いて5分ほどで、列車の時間では無いのに回送列車として一両のキハ54が猛スピードで雄信内方向へ駆け抜けて行った… 背筋がゾォーーートした…  
 あのまま線路歩きをしていて、トンネルの中であの列車と出くわしたら…  と思うと、全身が凍りついた。 確かあのトンネルは待避場所が無かったかと思う。 
 正当に線路歩きをせずに訪問しておいて良かったと、胸を撫で下ろした。 このページを読んでいる皆さんにも是非伝えたい。 駅間歩きで止む無く線路歩行をする際は、
 絶対にトンネルの中へは入らないと。 それは貴方の為に。。。 


File:No.4  下中川駅  2001年6月30日 利用者僅少(皆無)ため廃駅となる。

     

宗谷本線「下中川駅」 簡素な板切れホームと小さくボロい待合室がある。    夕方は早々に暗くなるが、利用者の姿はまったく無い。


  観察日記   1999年12月10日に上下2度、停車中に観察

 この「下中川駅」は天塩川の対岸に国道が走り、一般的な通行ではまず見かけることは無い。 駅周囲はただっ広い原野と牧場があるだけだが、人が住んでいる気配は感じ
 取れなかった。 恐らく離村してしまったらしくここもゴーストタウン?と  化したようだ。 そしてこんな小さな駅にも高床式?の待合室があって、中は伺い知れないが、恐らく暗くて
 狭いこと請け合いだろう… また、秘境駅といっても写真にも見えるように地吹雪防止の塀があったり、高圧電線の鉄塔があったりしてムードは良くない。 上下2本の列車に乗車
 したが、とうとう一人の利用者も見かけなかった。 となりの急行停車駅である「天塩中川駅」も無人化されてしまい、なんだか寂しい一帯であった。

    
  
 板切れホームと薄気味悪い待合室。   待合室の内部は暗く、佇んでいると物悲しい気分になる。   駅の裏には牧場と思われる一軒の人家がある。 

  訪問日記   2001年3月12日 訪問

 今回この駅を訪問するため、昨夜の23:00に札幌を発車する稚内行きの夜行特急「利尻」に乗車した。 札幌駅前のコンビニで北海海鮮丼を580円で仕入れることが出来た。
 鮭そぼろをベースとした飯の上には新鮮なイクラがふんだんに乗り、更に深い味わいのホタテもプラスされた誠に贅沢な一品であった。 恐らく駅弁となったなら1000円は下らない
 値段となったであろう。 そんな贅沢な夜食を食べつつ一夜を“利尻”の自由席のシートで明かすこととなったが、予てから惹いていた風邪による咳が一向に止まらない。 
 あまりに堪り兼ねて、石北本線の上川駅近くの薬局で買った咳止め薬を飲んで、何とか落ち着きを取り戻し浅い眠りへと落ちていくのであった。 
 しかし、翌朝の4:00過ぎには早々と天塩中川で降りてしまうことになる。 今回訪問した下中川はその隣に位置し、そこから4km弱の距離であるため歩いて行くことにした。
 下中川を出る列車までは3時間近くの時間があるので、ストーブが燈る待合室にあるレザー張りの長椅子で暫く横になった。

 実は、私にとって初めて駅寝した駅がここであった。 時は昭和61年6月某日、若干19歳の私はヤマハのFZ400Rというバイクで北海道ツーリングとして、宗谷岬へ向かう途上の
 ことである。 国道40号を天塩川沿いに北上して行ったのだが、生憎深夜になってしまった。 ただ、計画の段階から宿などどこかの駅で… という発想であったから、当時より
 既に放浪癖が付いていたようだ。(笑)  こうしてやってきた天塩中川駅は、当時駅員が深夜も常駐していたのだが、「待合室で休んで良いか?」との私の願いに、暖かく了承して
 くれたのである。 当時、その駅員氏に当時の国鉄末期に吹き荒れた当地のローカル線廃止や合理化による人員削減の話しや、列車が熊を轢いた話しなどをたっぷりと聞いて
 眠りに就いたのであった。 確かあのレザー張りの椅子は、当時私が横になったものと同じものだ。 こうして寝転がっていると、15年前のうら若き青春の思いでが鮮明に甦ってきて
 何とも言えない不思議な気分になった。

 そして、うっすらと明るくなった頃にガチガチに凍結した路面を歩くためアイゼンを装着して一路、下中川駅へ向けて歩き出した。 咳止めの薬を飲んで間もなかったため、頭が
 ボンヤリして非常にだるい。 フラフラしながらもおよそ4kmを歩き通してようやくこの駅へ到着した。 駅の周囲には牧場の家と思われる人家が一軒と遠くに“さけます孵化場”と
 なぜか“BMXコース”があったりする以外は、鬱蒼とした山林と原野だけが広がっているだけで、何もない場所である。
 停車する列車は1日2往復だけという少なさであるため、列車での訪問はかなり困難な部類に属するのではないか。 駅の全景はご覧の通りの簡素なもので、特にこの待合室は
 扉が壊れていて初めは中々開かなかった。 そして中は狭い上に薄暗く、居住性は良くない。 こんな原野の真っ只中にある暗い待合室の中で一人佇んでいると、こんなことに
 すっかり慣れてしまっている私でさえ物悲しくなってきた。  これも体が万全でない故に弱気になってしまっていたためであろう…

 そして、備え付けてあった駅ノートへ書き込んで、暫くすると列車が天塩中川方向へ通過して行った。 この駅はそこで交換して来る下り列車はここに停まってくれる。 
 10分程たって列車がやって来たので乗車し、キハ54の力強い加速を感じつつ、この寂しげな駅を見送るのであった…


File:No.5   奥白滝駅  2001年6月30日 利用者僅少(皆無)ため廃駅となる。

 石北本線「奥白滝駅」 周囲に人家らしきものは一切無い。 何の為に駅は存在しているのだろうか…

               

  闇夜にぼんやりと浮かび上がる駅名標。 これから長いトンネルが待っている。   利用者は皆無だが、除雪した跡が見受けられた。


  観察日記   1999年12月11日  オホーツク3号通過中と降り返し普通列車で停車中に観察

 ここは、白滝シリーズ最後の駅として、この先には北見-石狩の支庁界として4329mにも及ぶ長い石北トンネルを控えている深い山中である。 駅の周囲に人家は一軒も無く、
 運転士氏の話によると通常の利用者は一人もいないが、列車交換設備がある為に信号場としての役割をしているそうだ。 そして、夏に放浪している若者や、輪行(自転車を
 解体して携帯している者)の連中が極稀に利用するだけとのことだ。 もう駅としての役割は終えてしまって、その存在も山向こうで隣駅の上越駅(現信号場)と同じ運命を辿るの
 ではないかと危惧される。 駅舎は古いがかなりしっかりとしていて、この地方の豪雪にも耐える構造となっている。 そして、私一人を乗せた列車は静かにこの無人地帯の駅を
 発車し、やがて石北トンネルへゆっくりと身を沈めて行ったのである・・・

                                                                                   

                                                       クッキリと澄み渡った快晴の昼下がり、人気ない構内はとても綺麗に除雪されていた。

                                         

                               駅前も同様に除雪され、出入り口の部分を切り抜いたところが面白い。    古めかしい駅舎は現在保線職員の詰め所となっているようだ。

                                         

                                  すっぽりと雪に埋まった駅名標。 駅舎の無い下り線ホームは現在では使われていないようだ。  駅舎の柱には「標高513m」と記されていた。


  訪問日記    2001年3月11日 訪問

 この「奥白滝駅」は、今回訪問した一連の“白滝シリーズ”の最後の駅として、北見-石狩支庁境である石北峠にほど近い所に位置している。 標高は513mにも及び、周囲は山深く
 人家も一切存在しない地域ではあるが、なにも初めから無人であった訳では無い。 事前に調べてみたところ、大正2年に福島県からの移住団体が開拓の鍬を下ろしている。
 そしてこの駅が開設されたのは昭和7年10月1日のことで、これを境にこの地は急速に発展して行った。 集落は100戸あまりに拡大し、林業も繁栄した頃は駅前に旅館も建ち、
 遠くは京都の染物店や旭川の菓子問屋などが宿帳に記載されていることから、多くの人々がこの地へ行商にやって来たという。
 奥白滝が最も賑わったのは昭和20年代であり、この写真にある駅前広場にはお祭りとして盆踊りが開かれて、幾重にも人の輪が重なるほど盛大であったとのことである。
 更に驚くべきことに、この奥白滝駅の年間の乗降客数は、昭和25年には年間4万人もの乗降客があったというから、現在の姿からを見ると想像を絶するものがある。 

 しかし、こんな時代も長続きはせず、やがて高度経済成長を迎えるとこの不便な土地は機械化の波にも取り残され、林業も資源枯渇によって衰退してしまう。 昭和40年代になると、
 離農者が相次ぎ次第に人の姿を見なくなって行った。 そして遂に昭和58年には無住地となってしまった。  隣駅であった上越駅も奥白滝も駅の無人化と同時に無住地になった
 というから、恐らく最後の住人は国鉄の職員だったと大方の想像が付く。 現在、駅前には廃屋があるほか、旭川紋別自動車道の工事事務所がある。 ただ、そこの人がこの駅を
 利用するとは考えづらく、やがて上越駅同様に信号場化されてしまうのでは無いかと思う。
 
 今回、この地へはレンタカーでやって来た訳だが、列車での訪問が1日/1往復のダイヤという余りに現実性の無いプランとなってしまうので、場合によっては駅寝の必要が出てくる
 と思う。 しかし、待合室内の造り付けの椅子は撤去され、代わりに4連のプラベンチがあるだけので少々辛いかも知れない。恐らく鉄道利用者以外の宿泊が目に付き、ゴミ問題等
 で締め出す目的もあったと思われる。 そして、類の漏れずこの駅にも“駅ノート”があったので記帳して行くことにする。 そして、国道333号線を石北峠に向けて車を発進させて
 行くのであった…


File:No.6    中越駅  2001年6月30日 利用者僅少(皆無)ため廃駅となる。

石北本線「中越駅」 以前は集落もあったが、今はもう誰も住んでいない…

      

   駅舎は北海道の住居によく見られるコンクリの煙突を持った素朴なものである。     交換設備はあるが、ホームは狭い島式となっている。


  観察日記  1999年12月11日 特急オホーツク3号で列車交換の停車時及び降り返し普通列車での停車時に観察

 ここは、周囲に人家が一切無い為、駅としての役割は殆ど果たしていないと思われる。 しかし、列車交換などの信号場としての役割のほか、保線関係の倉庫や詰め所などが
 あって、一般的な利用以外での使い道があるようだ。 古い駅舎はそのまま残っており、事務室側の室内には電灯が灯っていて、除雪作業のために保線作業員が待機している
 ようだ。 私が今回乗車した特急「オホーツク3号」は天幕で貨物列車を、そしてこの中越で特急「オホーツク4号」と列車交換のために運転停車をした。 そして、留辺蘂で下車する
 ことにして、そこから降り返した。 更に、遠軽からは全ての駅に停車する4626Dで、一つ一つの秘境駅を観察することにした。 その列車の運転士の話では、この中越駅周辺には
 以前には集落もあって、実際に住んでいた人の利用者もあったという。 今では「旭川紋別自動車道」の工事の詰め所が近くにあるので、そこの人がたまに利用するらしいとのこと
 であった(何だか皮肉なものであるが…)。 結局誰も通らない道路を多額の税金を使って政治家の票を獲得する為に成される工事をやっている。 昔の国鉄体質と何も変わって
 いない。公共工事だ!と大義名分のもとに、ここでも悪しき歴史を繰り返している。 そして車を運転できない交通弱者がこういった山境の地を追い出され、結局鉄道が縮小・廃止
 などの犠牲になってしまっている現実がある。 そんなことを考えながら列車は次の天幕へ向けて発車して行くのであった。 

 ※そして今、私も田舎に住み、地域の現実を目の当たりにすると、上記のことが一概にも正しいとは言えないと判った。 地元に産業が存在し得ないため、自らの生活を
  守り抜く上で、不本意ながらも成す術無く、日々淡々と働くしかないのである。 土地を売り、自分を売り、挙句の果てにそれらを食いつぶし、その果てに財政再建団体
  となった、某Y市のように、それら長年のツケが何の罪も無い住民たちに降りかかってくる構図だ。 だから地域を守るため、しいては自分の身を守るために選挙へ
  行き、正しい投票をすることは、本当に大切なことなのである。 “シガラミ”や“無関心”というのが一番悪い。 理想論では何も出来ない、生きられない厳しい世界が
  存在するのである。 現実は本当に甘くない・・・
 
  (2007.3.22 加筆)


    

  列車交換設備があって、更に側線も備えている。 ホームはこの辺りでは珍しい島式ホーム。  駅舎はコンクリ製で、保線作業員の車が停まっていた。

  訪問日記   2001年3月11日 訪問

 今回、この「中越駅」には石北本線の秘境駅訪問の一巻として、レンタカーを利用してやって来た。 本来は列車での訪問をしたかったが、もうこの世界では既に“有名”となっている
 1日1往復停車区間に属しており、容易く乗降できるものでは無い。 更にこの駅は上川寄りの天幕駅まで6.7km、更に峠越えとなる遠軽寄りの奥白滝駅までは実に16.7kmもあるため、
 徒歩での訪問もままならない。 また、奥白滝との間には石北トンネル(4329m)が控えているので、必然的に大きく遠回りしている国道を延々25km以上も歩く必要が出て来て、
 もはや現実的ではない。 おまけに、この今期から隣の天幕駅は、列車交換設備撤去のために冬季閉鎖へ追いこまれてしまい、4/1まで通過となってしまうのであった。 
 これはもう、列車での訪問に如何してもこだわるというのであれば、駅寝は必須条件である。 しかしこの駅の待合室だが、特に夏場は「虫やクモの巣窟」と呼ばれているほどの
 凄まじさらしい。 私が訪れた時は特にそんな気配はしなかった(冬だし…)が、虫が苦手な方は止めておいた方が良いだろう。 まあ、そんな方は到底駅寝に縁が無いと思うが…

 そして、私は先に訪問した奥白滝駅より、国道333号線の北見峠の屈曲した峠道を軽々と三菱「ミラージュセダン4WD」で越え、途中に見える建設中の“旭川紋別自動車道”の
 高架橋を見上げながら進む。 やがて峠を下って右手の方向へ入る脇道を発見! 恐らく上越信号場に到達する道と思われたので空かさず入り込んだ。 案の定その通りで、
 除雪されたダート路と思われる(雪のため詳細不明)道を500m弱進んだ行き止まりの広場には、上越信号場の詰め所(旧上越駅舎)へ渡る吊り橋があった。 車を降りてそちらの方
 へ歩いて行き、めでたく上越信号場の訪問が達成された。 ここはかなり以前に“駅”であったが、昭和58年頃に無住地となってしまったために駅としての営業を止め、信号場と
 なってしまった経緯がある。 標高は道内の鉄道では最高地点の駅として634mに達しており、冬季における自然条件は特に厳しいものが有る。 そのため、ここを開拓した移民から
 も早々と捨てられてしまったのではないか考えられる。
 ただ、未確認情報によると信号場化されたにも関わらず、暫くの期間は乗客の申し出があった時には降車を許可していたらしい。 しかし、現在ではホームが撤去されてしまっている
 ため、それも叶わぬ夢となってしまっている。 恐らくここが駅として現在まで残っていたとしたら非常にレベルの高い“秘境駅”として認定されたであろう(微笑)   


                                                 

                                      上越信号場全景 当然列車交換も可能で構内はかなり広い        旧上越駅の駅舎が残る。 保線作業員の詰め所として現役。
 
                                                        
              
                                     国鉄タイプの駅名標。 小さく“信号場”と併記されていた。  上越信号場へ渡る鋼鉄製の吊り橋。 特に揺れたりしないのでツマラナイかも?

 さて、話しが上越に囚われ過ぎてしまったが、ここ「中越」も無住地となって久しい。 標高こそ478mと上越には150m以上の差を付けられてはいるが、人家は廃屋と先に紹介した
 “旭川・紋別自動車道”の建設宿舎があるだけだ。 国道333号線はそれなりに交通量は多く、辺り一帯に寂しさは感じられないのだが、時代から取り残された古い駅舎は郷愁を誘う。
 駅前には除雪作業のために保線作業員の車が停まっていて、駅構内には2人の作業員が作業中だった。私は、軽く会釈してからあちこち撮影を済ませた。 待合室内部には例の
 4連プラベンチしか無いので駅寝には有る意味の“覚悟”が要る。そして、次の天幕駅でいよいよ石北本線の秘境駅訪問は最後となる。 はやる気持ちを抑えながら
  冬季閉鎖となったその駅の姿を確かめるべく、車を発進させたのであった… 


File:No.7   天幕駅   2001年6月30日 利用者僅少(皆無)ため廃駅となる。

  大雪の中、客は無くとも除雪する。 全ては鉄道の安全運行の為に…

   

               駅舎は古いが、結構しっかりしていて居住性は良さそうだ(^^; ボンヤリと浮き出た駅名標  周囲の人家は廃屋が多く人影は無かった。  

  観察日記   1999年12月11日  特急「オホーツク3号」運転停車時と折り返し普通列車の停車時に観察

 ここは、石北本線の「天幕駅」である。 駅周囲はいくつか廃屋が並ぶ無人地帯であるため、利用者は全く無いと言って良い。 そして、この駅も古い味わい深い駅舎が残り、
 2面のホームと列車交換が出来る設備がある。 しかし、現在この駅は殆ど信号場のような役割になっているらしい。 しかし、利用者が居なくても駅舎の前は綺麗に除雪されていて、
 これには吃驚した。 恐らく保線作業員の方だろうが、鉄道の安全運行の為に大雪の中でも日夜仕事をしているのである。(感謝)  特急「オホーツク3号」はこの駅で対向の貨物列車
 (DD51重連!)と交換する為に停車した。 列車内でアナウンスがあるが車内の人達は 当然無関心で、私一人が落ち着き無く写真を撮りまわっていて恥ずかしい思いをした (^^; 
 そう、私は燃えていたのである! ハハハ  しかし、所詮窓越しの車内からはロクな写真にならず、結局降り返しの普通列車で停車中に撮影した方が良かったようだった。
 そしてこの普通列車も次の上川で1日1往復区間の大役? を果たし、駅も静かに眠るのであった…

          

  交換設備が撤去されてしまい、信号場としての役割さえも奪われてしまった。  当然下り線のホームは使われなくなったが、深い雪の中で実態は不明。

          

            開業当時に建てられた駅舎が現在でも堂々と残る。   駅名板はあの“徳満駅”と同じタイプ。  入り口ドアに休止を伝える“お知らせ”の張り紙が…

  訪問日記   2001年3月11日 訪問

  さて、今回の石北本線における秘境駅訪問旅であるが、いよいよ最後になるこの「天幕駅」へ向かうこととなった。 相変わらず国道333号線は交通量が多いうえ、どの車両も相当
 なスピードで走っている。 駅間歩きなど試みるには“恐怖体験”を感じることであろう。 私が運転するレンタカーのミラージュセダン・4WDは軽快に進み、暫くするとカーナビの画面に
 “天幕駅”が示された。 しかし、国道から見る駅はてんこ盛りの雪が阻んでいて辛うじて見えるだけだ。 入り口になる側道は、300メートルほど先にあったので、大して慌てることは
 無かったが、夜間などは恐らく発見は困難であると推測する。

 駅へ向かう側道を行くと一軒の人家を発見。 どうやら住んでいるらしく、除雪の跡がある。 この季節はどうも人が住んで居るか否かの判別を付けるのにかなり好都合であることに
 気が付いた。  あとはもう一軒見えたが、そこは公民館のようであり既に使われている様子はない。 程なく駅へ到着して行動開始。 カメラを持ち、待合室に入ろうとするが妙な
 張り紙が… そう、この駅は現在冬季閉鎖中で、それを伝える張り紙だった。 交換設備も撤去されてしまい、信号場としても使われなくなってしまったようだ。 何だか寂しい一面を
 垣間見てしまったようだ。  本当に4月30日には再開してくれるのであろうか… 最近のローカル鉄道事情を伺うとそんな疑問符を感じざるを得ないのである。

 待合室内部には4連のプラベンチのみで、駅寝向きではない。 鉄道利用者以外の人間が宿とすることを嫌ってのことであろう。 ゴミは散らかし、落書きを残し、挙句の果てには
 器物を破損して去って行く。 一部の不心得者の仕業であろうか、“旅の恥は掻き捨て”という言葉は旅人にとって“恥の最たる物”として認識して頂きたいものだ。 せいぜい自分の
 格好だけにして欲しいものである。(微笑)  そんなことを言っても始まらないので、駅舎の外へ出る。  すると、見事に待避線は撤去され“一線スルー”の棒駅となっていた。
 呆気ないものである。 少々辺りを探索するのだが、今回私は風邪を惹いているので無理をせず、早めに上川へ向かうことにした。 車を発進して暫くすると上川の街へ入った。
 スタンドでガソリンを給油するが、10L程度しか入らない。 走行キロは130km程度なので、およそ13km/Lという燃費であった。 自分の車の倍は走る燃費の良さで、これには少々
 驚いた。 そして、薬局で風邪薬(咳止め)を買い、40分余りの時間を早めて駅へ車を返してこの石北本線秘境駅レンタカーツアーを終結させたのである。


File:No.8   楓 駅 利用者僅少(皆無)ため、2004年3月13日を持って廃駅となる。

  石勝線 「楓 駅」 早朝に1日1往復の列車がやって来るだけという、存在意義に悩む駅…

    

                                 駅の周囲には集合住宅が4棟もあり秘境という風情には薄い。 (左の写真)右側が本線のホーム。左 側は行き止まりで当駅発着列車用のホーム。

                                        

                                    もう使われれる事の無い本線ホームへの連絡階段。  一駅区間だけに掲げられたサボ。 1往復/日となった今、普通に利用するのは不可能と言える。

  訪問日記  2001年1月2日 訪問
 
 石勝線の「楓駅」である。もう既にご存知の方も多いと思うが、この駅は石勝線の新夕張駅の隣に位置する駅で、同区間の数ある特急列車は全て停車しない駅である。
 そして現在では早朝にたった1往復の普通列車が残るだけだが、それも既に休日は運休という扱いを受けていた。  そのため、この駅への列車での訪問は、非常に困難
 であると言って良い。 駅の周囲は以外に開けており、集合住宅が4棟ある他、遠くにチラホラと人家も散在していて秘境といった趣は無い。 

 その昔、この地区一帯は良質な石炭を産出した所で、これを積み出すための長い貨物列車が引っ切り無しに往来し、沢山の人間で相当賑わったという。 エネルギー革命とは
 凄いもので、これらヤマから産出された燃料があっけなく石油に取って代わってしまった。 そして現在、その石油系の化石燃料も有害物質やCO2の排出による、地球温暖化
 の問題として同じ運命を辿っていくのであろうか… 話が横道に逸れたが、私ごときが語る話題では無いので、早速旅の話へ戻そうと思う。(笑)
 
 この楓駅構内の配線はまず、行き違い可能の本線が、それぞれの間隔が非常に広く保たれていて、そこに独立して設けられた相対式ホームがあり、現在では一切使われることは
 ない。 そして、1日1往復の列車は、毎日同じ時間に、ゆっくりと左側にある片面の専用ホームへやって来て、8分のインターバルの後に、静かに発車して行くことを繰り返している。
 また、待合室は殆ど居ないと思われる利用者とは裏腹に、内部は非常に広くて4人程度が座れるベンチも6脚以上あって、利用者が殆んど居ないことも相まって何だか違和感を
 覚えた。 駅寝には結構良い環境と思えるが、この列車ダイヤでは有効に活用することが出来ないので、こうした利用方法をも意味を成さない。

 今回、私は“なまらさん”との宗谷本線の秘境駅訪問を終え、名寄駅でまたも“F5さん”と再会。 暫し一緒に会談し、その後私は、旭川へ向かう特急「スーパー宗谷4号」へ乗車して
 別れた。 この新設されたキハ261系特急「スーパー宗谷4号」は、怒涛の加速力で軽々と塩狩峠を超えて、あっけなく旭川に到達した。 その後、富良野線と根室本線を乗り継ぎ、
 深夜に新得駅まで到達。 翌日2:31発の夜行特急の「おおぞら14号」を追分まで乗車した。 そして始発の普通列車を新夕張で乗り換え、(実は追分から一緒に回送され来る)
 やっとこの1日1往復のこの列車に乗車できたのである。 朝が非常に早いので、殆ど寝ることも出来ず、体力的にはかなり堪えた。 しかし、この列車に乗車するにはこれが最良の
 手段となるため、ここは耐えるしか無い。

 そして、いよいよ目的の列車へ乗車できたことで、私は少々興奮していた。 車両前部へ行って観察していると、運転士が「こっちへ来ていいよ」と声を掛けてくれたので、お言葉に
 甘えて誘われるがまま助手席に座った。 そしてこの運転士から、衝撃的な事実を聞かされることとなった。 なんとこの列車の生命もあと僅かで、来年の3月(※1年延びました)
 のダイヤ改正には無くなるとのことであった。 そしてこの「楓駅」も約6000万円を掛けて解体され、信号場化されてしまうとのことであった。 今まで、残っていたのは解体する費用
 が捻出できなかったからだそうである。 そのための布石として、昨年の7月のダイヤ改正で減便されたのであろう。 そして私は、「あの本線のホームは一度も使ったことは無かっ
 たのか?」 と問うて見た。 運転士は、出来た当時は急行の「狩勝」が停車していたが、直ぐに特急化されたので、利用されたのは非常に僅かな期間であったとのことであった。

 ほんの数分であっけなく、「楓駅」に到着したので、折り返しの8分間を使って周囲の撮影を行った。  だだっ広い待合室には、生憎駅ノートは存在していなかった。 心無い誰かに
 廃棄させられてしまったのであろうか… 発車・到着の時刻表には、かつてあった夕方の便に紙が張られ、寂しさを盛り上げていた。 やがて発車時間となったので、帰りも運転士と
 話をしながら新夕張へと向かう。 そこで私は、「現在の利用者はどれくらい?」との問いに、運転士曰く、「集合住宅に住んでいる2名だけ」だそうだ。 そして夕方の便があった頃は、
 定期券を利用していたとのことだが、朝のみの乗車では殆ど使えないため、割高であるが回数券を使っているそうだ。 帰りは同区間を並走する夕鉄バス(4往復/日)を使っている
 らしい。 ただ、早朝は現在のところ列車しか無いため、仕方なく使っているとのことだ。  また、付け加えると私のような鉄道好きな人が時々乗って来るとのことであった。(笑)

 そして、鉄道の終わりという寂しい現実を目の当たりにして、何だか複雑な気持ちになったが、鉄道会社も慈善事業でやっている訳ではないので致し方無い部分もある。 私のような
 こういった寂れ行く鉄道を趣味に持つ者達は、いつも不幸な結末と隣り合わせなのである… (泣)


                        はじめに…  ここは過去に死亡事故が発生しています。 線路歩きでの訪問は、非常に危険です。
                     このページをご覧になり、真似をして行ったりしない様に、皆様へご理解の程、宜しく願い致します。

                                        File:No.9 張碓駅
                      10年以上ここへ停車する列車は無く、有形無実化していたが、2006年3月18日 ダイヤ改正にて廃止となった。

                   

     国道5号線の歩道より眺めたところ。 ここを降りるのはかなり難しい…   張碓トンネルを挟んだ反対側。 使われていない漁師の番屋が残る。

         

  張碓駅の予告標。 もう少しで辿りつくのか? と思ったが大間違いであった。   トンネルを迂回して海岸を行くが、深い雪と極度の疲労で断念した。


  訪問(玉砕)日記  2001年1月3日 訪問しようとしたが、達成ならず…

 この張碓駅であるが、今回で第3回目となった北海道秘境駅訪問旅の中でも、先に訪問した智東駅や楓駅と並んで最も重要視された秘境駅であった。  現在、この駅には停車する
 列車が皆無であるのだが、時刻表にはしっかりと掲載されているという不思議な駅である。 以前は夏季の海水浴シーズンに 極僅かだが停車する列車もあったのだが、遊泳禁止と
なってしまった現在ではもう復活の兆しは無いと見て良いだろう。 列車が停車しなくなったことと、この駅まで到達する車道は一切無く、まともな歩道も無いので到達は非常に困難を
 極める。 そんな駅であるため、是非とも到達したかった駅であった。  しかし、現実は厳しかった… 事前のプラン作成も充分に練ったつもりだが、結果的には深い雪と自らの
 体力の限界により、断念してしまったのである。  

 まず、この駅へ到達するに当たり、計画の段階で2つのプランを立てた。 一つはバスで手稲駅から“張碓小学校”のバス停で下車して、そこから約2.3kmを徒歩で到達する方法で
 あった。 そして、もう一つのプランだが、同じく手稲駅からバスで張碓トンネルを越えて反対側の“朝里神威古壇”のバス停から、急傾斜地を200m程降りて海岸沿いにトンネルを
 約1.5km迂回する方法である。  結論から察するに、今回は後者のプランを選択したのが敗因であった。 まず一つ目の失敗は、急傾斜が物凄くキツクて歩行できるルートが限定
 されてしまったこと。 2つ目の失敗は、下まで降りたのは良いが、線路に辿り着くまでには高い塀があって保守用のはしごが有る所まで深い雪に悩ませながらの歩行で、思いのほか
 体力を消耗してしまったこと。そして3つ目の失敗は張碓トンネル(約975m)の迂回をするに当たり、海岸線沿いに迂回する歩道があったのだが、やはり雪が深くて体力に限界を
 感じて しまったことである。 さて、それではこの張碓駅へ到達できなかった訪問記を綴って見ようではないか。  

 札幌駅で特急「スーパー北斗3号」を降り立ち、手稲駅まで混雑した731系の快速列車に乗車した。 そして、手稲駅の南口にあるバス停からJRバス札樽線に乗車し、国道5号線の
 張碓トンネルを過ぎて“朝里神威古壇”のバス停で下車する。  北海道ゾーン券を持っていたため、運賃は特にかからなかった。 そこから国道5号線を約400m程戻って、とある
 建設会社の敷地に背負っていたザックをデポ「置く」した。 正月休みのためか事務所は無人で、申し訳ないと思いつつ、その場所から急傾斜地をカメラバックのみの軽装で降りて
 行く。 動物らしき足跡が有るが、鹿やウサギでは無い… 結構大きいもので、爪の部分もクッキリと写っている。 “熊”であろうか?…(怖) 戻ろうか迷ったが、まだ歩き出して間も
 無いため、このままこの深雪の急傾斜地を足跡をつけながら降りて行った。 やがて、線路附近まで辿りついたのであるが、ここで思わぬ障害が立ち塞がった。 なんと線路際に
 高い塀が出来ており、とても人力で乗り越えられそうには無かった。 暫し途方に暮れたが、その塀沿いに深い雪に足を取られながら進んで行くと、運良く保線用の梯子を発見した。

 そして、この垂直に掛けられた梯子で塀を乗り越えて、線路際に降り立ったのである。 線路歩行は危険であるため止む無くゴロ石の海岸線を歩くことにする。 時折深い雪に埋もれた
 非常に足元の悪い道のりをトボトボと進む。 やがて「張碓」の駅予告表示が見えた! 期待は高まる。 そして廃屋と漁師の番屋が2〜3軒あり、そろそろかな〜と思ったが、間も無く
 “張碓トンネル”が立ち塞がった。 トンネルを潜れば約1kmほどであの「張碓駅」へ辿りつけるのであるが、列車本数が余りに多く、ここを通ることはとっても危険なことだ。 
 仕方が無いので このトンネルを迂回する形で海岸沿いに続く歩道を進む。 しかし、その道は雪が思いのほか深く、難儀の末になんとか坂の上にある廃作業場へ辿りついた。
 周囲は全くの無人で、このまま無理に進んで駅へ到達できたとしても、そこから更に2km以上の歩行が待っていることは解っている。既に体力は限界であり、下手をすると遭難しかね
 ないと判断した。 頭をよぎる子供の顔・・・ 動けなくなった自分の姿・・・ 雑多の世界からの非難の声・・・ このまま進むと不味い!ここは撤退あるのみ。  悔しいが、仕方ない。

 「遭難」とはこんな感じで起こるのだろう・・・   自分の計画性の無さにほとほと呆れ果ててしまった。 今朝、小幌駅からの海岸到達を達成して変な自身が付いてしまったのも遠因
 ではないかと思う。  坂を下って、トンネル入り口に戻り、またもや延々と海岸を朝里駅方向へと歩く。 ザックをデポした建設会社の所へ戻りたいが、もうあの急傾斜を登る気力と
 体力はもう無い。 時折やって来る列車に注意しながら朝里駅直前の踏み切りまでなんとかやって来た。 国道5号線までの細い坂道を上り詰め、脇を通る多くの車を横目に延々と
 登り坂をゆっくりと歩み、ようやく先程ザックをデポしておいた建設会社の事務所まで到達した。 誰か居たらどうしようかと内心ビクビクしたが、幸い誰も居なかった。 無事ザックを
 回収して バス停でバスを待つことにする。 周囲もうっすら暗くなって冷え込んで来る中、待つこと20分ようやく小樽行きのバスがやってきて乗車した。その後、小樽駅に着いたのだが、
 半ば心神耗弱状態(要するに極度の空腹…)となった私はフラフラととある“回転寿司”に入ってしまった。 小樽の寿司の美味さは有名であるため、期待半分であったが結果は
 「全然大したことは無かった」。 6皿のみ食した  後で、札幌まで快速「エアポート」の乗客となったのである。 そして薄暗い車窓を目を凝らしながら、一瞬であるが張碓駅の駅名標を
 確認した。  次回こそ絶対に到達してやると決意した瞬間であった…


              

       “恵比寿岩”と呼ばれる所までの歩道の入り口                  深雪に足を取られながら急坂を降りると眼前に恵比須岩が… 

             

 遂に張碓駅へ到達! 断崖の下、真っ白な雪に埋もれたホームが見えた。       ボロボロの駅舎は板で打ち付けられて侵入できない。
 
            

 すぐ目の前に日本海を望む。 そして駅名標には過去に海水浴客が書いたと思われる落書きが哀愁を誘う… 列車が停車した頃の時刻表が貼られていた

 これがホントの訪問日記  2001年3月9日 訪問

 さて、今回の北海道秘境駅訪問旅も第4回を数えて、前回に訪問を断念してしまったこの「張碓駅」への到達を目標に、今回の旅は万全の装備とともに計画された。 そして、前回の
 失敗を教訓にして2ヶ月余りの日々を悶々と過ごし、煮え切れなかった思いを晴らすかの如く、上野駅より札幌行きの函館(山線)本線経由の寝台特急「北斗星ニセコスキー号」に
 乗りこんだ。  今回の旅は 「ぐるり北海道フリーきっぷの5日用」を使用した。 都区内発で33,500円は往復の運賃・料金を含めても破格の価格設定だ。 しかも、今期から“B寝台
 個室ソロ”も使えるようになったことを一早くキャッチしていたので、丁度1ヶ月前の午前10時には、「緑の窓口」で所定の指定した切符を先に現金払いで購入し、“ぐるり…”の発売日に
 払い戻しにて対応するという荒業に出た。 そして目的の偶数番である2階部屋の確保に成功したのであった。   ただ、帰りの「北斗星4号」の“Bソロ”は、仕事の関係で発売日に
 駅へ赴けなかった 関係で、翌日の10時に出向いたら既に完売… しかもB寝台の上段し  かないという凄まじさであった。 取りあえずソレを確保したのであるが、旅先の釧路駅で
 キャンセルとして、なんと残1部屋の“Bソロ”のGETに成功した。  望みは最後まで捨ててはいけないのである(笑)   もう少し張碓駅へ到達するまでのプロセスを語りたいと思うので、
 長文であるのだが、まあ読んでいって下され…  
  夜勤明けで会社を朝無事?に退社して、家に着く。 しかし体は2日ほど前から風邪を惹いていて、熱は無いのだが、咳が出る。 まあ、食欲はいつも通り旺盛なので問題無いと
 判断して、女房の心配はよそに旅立つ決心は揺るぎ無いものがあった(笑)  >>しかし後で苦しむ…
 さあ、夕方出発なのに何も準備していない… だが、すっかり旅慣れてしまって、小一時間であっさりとポイントを押さえた装備が組みあがった。 また、今期はかなり冷え込むとの情報
 から、持てる装備には念を押した厳重なものとなった。  3時間程の仮眠の後に、駅まで女房に送ってもらいつつ、地元の西八王子駅から中央線の「特別快速」に乗車。 そして神田で
 京浜東北線にスイッチして、北斗星が発着する上野駅13番線ホームに降り立った。 まず私が乗車する前に出発する「北斗星1号」の出発を見送り、その間に食料調達を済ませた。
 いよいよ、これから乗車する「北斗星ニセコスキー号」の入線だ。 札サウの北海道編成で個人的には尾久に在籍する東日本編成よりも好みな車両である。  今夜の私の部屋は
 9号車10番の2階。 ソソクサと乗り 込み、暫くすると発車時刻となった。 

  そしてEF81 133に牽引されたこの列車は、北へ向けて静かに発車した。  程なく車掌氏によって検札の後に部屋の鍵を受け取り、しばし通過して行く首都圏の駅ホームに通勤する
 人々を高見の見物と洒落込む。  しかし現代の国内の中長距離旅のスタイルは依然航空機の利用が主流となっており、北海道だけではなく寝台特急を利用するというのは、変わり者
 の象徴的存在らしい…  しかし、そんなに急いで行かなくても1泊2日じゃない旅行で有るわけじゃなし、道内での行動を含んだこの格安なきっぷの存在は、首都圏を含むJR東の
 ユーザーにとってはどうもPR不足としか思えない。 まあ、お蔭様で指定券争奪戦も特に無く、私にとっては俄然好都合であるが…  やがて食堂車へ出向き、シャワーカードを310円で
 求めることにする。  駅で買った弁当とビールを空けるとやがて、夜勤明けの体は睡眠を欲するようになり、21:00頃には早々と床へ着いてしまった。 以後、青森辺りで一度目覚める
 が、30分程でまたも寝入ってしまい、長万部あたりまで記憶が無い。  長万部を過ぎると、“函館山線”を時速50〜60km/h程度でノンビリと急坂を進む。
  人家も全く無いような原生林の山中を進むさまは、乗ったことは無いのだ  が、大陸横断鉄道の旅と錯覚してしまいそうな雰囲気だ。 この線は、以前に客レの急行「ニセコ」と、
 近年では150系DC普通列車で乗車したことはあった。  しかし、今回は豪華寝台列車である。 食堂車で食後のコーヒーまで付いたモーニング洋定食(1,600円也)を味わい、部屋に
 戻ってから眺めるその風景は、  オーディオ設備のBGMで流れるピアノコンチェルトのメロディーとともに、 列車の旅としては最高の贅沢を存分に堪能した。
 して、今回の張碓駅訪問のため、非常に名残惜しいのだが小樽で下車した。 小樽では函館からDD51の重連でやってきたカマの一台を切り離す作業を横に、私は一足先に出発する
 721系電車の快速「いしかりライナー」に乗りこんで、銭函駅で下車した。
  銭函駅からはタクシーに乗りこんで、運転士に“張碓駅の近く迄”との問いに、「今は誰も人は住んでないけどね〜」とのことだった。 私は「駅の写真を撮っている」とアピールして
 不審人物としての濡れ衣を拭い去ることにした(でも不審人物かなぁ〜?)。  運転士は、流石に地元であり迷う事無くあっさりと海岸に下りて行く歩道の入り口まで到達した。
 料金にして1,250円。 2,000円はかかると思っていたので少し嬉しく思った。 小樽発のバスは待ち時間が40分もあり、銭函駅からバス停は1kmと遠いのでタクシーを利用するのを
 計画の段階で、非常に躊躇していからである。 運転士曰く、ここ(歩道の入り口:写真参照)を降りると恵比寿岩があるから、線路伝いに歩いて行くと駅があるとのことだ。 
 貴重な情報をゲットし、丁重に礼を言ってタクシーを降り立った。 その行き止まりにある小さな車両転回広場で、オーバーズボンにスパッツ、そして軽アイゼンを装着してザックを近く
 の木陰にデポした。

  さあ、いよいよ張碓訪問に向けて前回の雪辱と、私の秘境駅訪問家としてのプライド?にかけて出発だ! 気合を入れて深い雪に覆われた急坂を降りて行くのだが、6〜7分程度で
 訳なくあの奇岩である“恵比寿岩”を目前にした線路に到達した。 だが、そこには警告の看板が… 取り敢えず見なかった事にして、先へ進むことにした。 しかし、ここは列車ダイヤ
 過密線区である。 かなり前からの交流電化複線で、小樽と札幌を結ぶ大動脈となっている路線であるため、7〜8分おきには通過列車があるという非常に危険な場所である。
 単純に上下交互に通過するという訳ではなく、不規則なパターンも存在しており、複線であるために“離合”(すれ違いのこと)という最悪の事態も考えられる。 それは、急カーブで
 見通し悪く、断崖が海側 ギリギリに張り出していて逃げ場の無いような箇所も幾つか存在する。 最悪触車事故にならなくても、その行動が元で列車を急停止させてしまいと考え、
  足元は悪いのだが、前回と同様にゴロ石の海岸線を進むことにした。 
 強引に線路歩行をして電車轢かれて死んでしまえば一巻の終わりであるが、列車を止めてしまっては運が悪ければ新聞ネタにされてしまうか、多額に昇る遅延賠償金を支払うことに
 なるなど、かなり大きなリスクを考慮する必要があるからだ。 海岸をトボトボと歩く道のりには、途中深い雪で覆われた部分もあって、時折落とし穴のような場所もあって、疲労度は
 更に増して行く。  ここまで来た以上はもう引き返せない。 そして、やっとの思いで険しい断崖の真下に深い雪で覆われた張碓駅のホームを見たときには、念願が叶ったことを
 実感した。 ただ、そう思いつつも油断は出来ない。 駅のホームは当然除雪されているわけでは無いので、駅舎の前まで来ないとホームに上がれないのである。 駅の直ぐ先には
 トンネルが口を開け、列車の接近を促すサイレンが鳴り響く… 少し広い場所で上下の列車が通過するのをやり過ごしてやっと駅舎に 辿りついた。 
 
 写真をご覧の通り駅舎は古く、とても荒れ果てていた。 以前にはガラスがバリバリに割れていて、物凄い状況だったらしいが、入り口を含めて既に板によって厳重に封鎖されていて、
 内部の状況は知り得ないものになっていた。 その脇には、以前に停車した列車の時刻表が3往復/日で停車していたことを無言に物語っているようであった。 駅名表には落書きの
 文字もあって、札幌と小樽という大都市からの夏季海水浴客の仕業であろうか、なんだか哀愁を感じざるを得なかった… 以前はかなりメジャーなレジャースポットであったことは
 間違い無い事実であったのだろう。   そして、一通り撮影を終えてここは到達した逆のルートを辿ることとする。 間違っても前回に敗退したトンネル脇の歩道を通って反対側へ
 行こうとは思わない。  帰りの道は歩いて来た所の足跡を辿ったので、体力的にも気分的にも少しは楽であった。
  到達しておいて卑怯だと言われても、ここではっきり言わせてもらう。 「1000人が同じ真似をしたら間違いなく1人は死人が出る」と… 事実列車に轢かれて亡くなった方も居られる
 ようだ。 これはかなり危険であると断言できる。 JR北海道も復活させないのであれば早く廃止してしまったほうが良いと思う。 私の真似事をして、不幸な結末を迎えた事を知って
 しまったら、かなり複雑な気分になるからだ。 まして、このページを読まれた読者であったら、私も悲しく思うからである。 「駅」として存在する以上、到達に執念を燃やす人間は
 極稀なケースだと思うが、私を含めてこういう人間は少なからず存在するからだ。 ただ、私にその行為を「止めろ」という権利はない。 その代わりに、この記事を読んで実行して
 不幸な結末を迎えても、私は一切責任は負わないつもりだ。 オヤジくさい説教を垂れても仕方ないので、話しを元に戻そう。 

 そして、今度は深い雪に足を取られながらの登坂が始まった。 降りてきた足跡とは歩幅が違うため、半分程度しか活用できず、途中息を整えながらやっと車道の転回場に辿り
 ついた。 デポしていたザックを回収して国道まで更に上り詰めるのだが、突如悲劇が襲った。 なんと、乗りたい方向 のバスが丁度通過していったのである… (泣) 
 時間的には次のバスでも充分に間に合うのだが、雪が散ら付く寒い国道の脇で、30分もバスを待つというのはなかなか辛いものがあった。 “張碓小学校”というバス停の待合所で
 ひたすら待ち続け、定刻にやってきたバスに乗車した時にやっと人心地が付いた気がしたのであった…



File:No.10 東幌糠駅    利用者僅少のため、2006年3月18日のダイヤ改正にて廃駅となった。

  留萌本線 「東幌糠駅」 短い板切れホームがあるだけで待合室も無い…

   

  駅名標はJRタイプではなく国鉄タイプで非常に好ましい。  周囲は離れた所に人家が3〜4軒ほど点在    駅名標の裏に“ひらがな”で…


  訪問日記   2000年1月2日訪問

 この「東幌糠駅」は1日に下りが2本、上りが3本しか停車しない為に列車での訪問できるチャンスは非常に限られている。 今回の訪問は網走からの夜行特急「オホーツク10号」を
 深川で乗り捨て、約1時間待ちで留萌本線の1番列車に乗車し、「大和田駅」で下車した後に「留萌駅」で交換してきた列車を捕まえてやっとこの小駅へ辿り着くことが出来た。
 そして、降り立ったこの駅は周囲に3〜4軒程の人家が点在しているが、早朝ということもあってか人影は全くない。 国道のすぐ脇にあり、交通量もそこそこあって秘境感は少ないが、
 完全に地元の人間から忘れ去られた存在となっている様で短い板切れホーム以外に待合室も無いという悲惨な駅である。 駅名標はもう全国にも少なくなったと思われる国鉄タイプ
 のレトロなもので、国道側からも駅名を認識できるように、「ひがしほろぬか」とひらがなで書いてあった。 次の停車する列車は14:05になってしまう為、隣の「幌糠駅」まで約3Kmある
 国道をトボトボと歩いていくことにした…  


 FileNo.11 新栄野駅  利用者僅少のため、2006年3月18日のダイヤ改正で廃駅となった。

                 

         残念ながら周囲は真っ暗闇で、全く様子が掴めなかった             扉が壊れている掃除器具置き場のような待合室


  観察日記   1999年12月11日  停車中に観察 .

 この新栄野駅は石北本線は遠軽駅の隣にあり、普通列車でも大半は通過してしまうという誠に寂しい駅である。  停車する列車は、下り1本と上り3本のみであり、同じ線区にある
 生野駅とは逆のパターンとなっている。 そのため停車する列車の選択などでプラン作成時から頭を抱えるような感じだった。待合室はご覧の通り掃除器具置き場を思わせる非常に
 質素なもので、しかも入り口の扉が壊されていた。 車内には、高校生らしき10人ほどの集団は若さ溢れ、大声でのお喋りは止む気配を見せない。 そんな中、私はカメラを抱えて
 誰も降りることの無い駅を撮影していた。 きっと彼氏彼女たちから見て、私の姿はさぞかし不気味に映ったことであろう… まあ、そんなことをいちいち気にしていたら、こんな趣味は
 出来る訳ないし、ここはどっぷりと自分の世界に浸ろうではないか。 そんな事を思いつつ列車は進み、やがてその若き集団は、白滝駅で全員降りて居なくなってしまうのであった…


            

   板切れのホームは綺麗に除雪されていた。 しかし、周囲には人の気配を感じない…  この待合室は荒れ放題で、余程ことが無い限り入りたくない。

        

      駅のそばには道道が通っているが、通行する車は殆ど無い。  裏手の丘は牧草地であるのだが、まるでスキー場の初心者ゲレンデのようだ。


   訪問日記  2001年3月11日 訪問

 この駅は、石北本線の遠軽駅の隣にある「新栄野」という小駅である。 周囲に人家は2軒ほどが点在し、“栄野会館”という地域の公民館が駅の前にある。 地理的には、
 国道333号線からは湧別川を渡って反対側に位置しており、道道が通っているものの殆ど車の通行は無かった。 また、林が近くにあって閑静な雰囲気に溢れており雰囲気は良い。
 だだ、ここも利用者が殆ど居ないせいか、普通列車でも通過ばかりで、列車を利用しての訪問は非常に困難であろう。 

 今回、この駅を訪問するに当たって、遠軽駅よりレンタカーを借りてやって来た。 遠軽からはまず、同線に存在する生野駅を訪問し、留辺蕊方面へ向かっていた国道242号線を
 引き返して来た。 しかし、遠軽には入らずに分岐する国道333号線を進み、湧別川に掛る橋を一気に渡って、石北本線が通っている場所へやってきた。 しかし、車載のカーナビ
 には駅が写らない。 どうしたことであろうか? 然るに、この新栄野駅は駅として認知されていないらしい… 仕方ないので、時刻表を取り出して営業キロ数から駅の位置を割り出す
 ことにした。 しかし、この時に不可解なことが起きたのである。 旭川駅からの営業キロは116.7kmであったので、迷わずその近くの踏切へと行って見た。 しかし駅なんて何処にも
 存在していない…  私はパニックに陥った。 何故だ? 駅ってそんなにいい加減な場所に設置されているのか? 辺りを暫くウロウロしたが要領を得ない。 もう、半分諦めかけて、
 そのまま国道に出ずに道道の交差点まで進むことにした。  いい加減に進んで、3kmは過ぎたであろうか? 突如、この「新栄野駅」が姿を現した。 

 不思議な気分になったが、取り敢えず周囲の撮影を一通り済ませた。 車に戻って暫く悩み、時刻表を再度眺めているとその答えが解った。 基本的なことであるが、石北本線の起点
 は新旭川駅だったのである。 旭川〜新旭川までの営業距離は3.7kmである。 ようやく合点が行った。 そんな些細な事… と思われるであろうが、駅訪問家の端くれとしては情け
 ない気分になったが、以外に騙されそうなものである。 訪問を諦めかけた駅を達成した喜びで、満足感も得られた。 さあ、次の駅はあの白滝シリーズのトップバッターである
 下白滝駅だ。 期待を高めつつ、車を発進させて行った… 


FileNo.12 南下沼駅   利用者僅少のため、2006年3月18日のダイヤ改正にて廃駅となった。

宗谷本線 「南下沼駅」 雪の中に埋もれた板切れホーム。 多分、今日はきっと誰も来ないであろう…

             

      ホーム上は全く除雪はされていない様子で、足跡さえ全く無かった。   このボロい待合室は扉が壊れていて、中には雪が吹き込んでいた。


  訪問日記  2000年12月31日 訪問

  この「南下沼駅」は、隣の下沼駅から約1.6kmという近さであるため、訪問は一見に簡単そうに思える。 しかし、列車本数が少ない上に下沼駅も停車する列車も限られていて、
 列車での訪問は結構難しい部類に属する。  駅の周囲は牧場が2軒ほどで、至って人の気配を感じないのであるが、実は近くに国道40号線の跨線橋が通っていて、車での訪問は
 あっさりと通りすぎてしまわない限り、比較的簡単であろう。 そして、この待合室はかなりボロく、窓ガラスも一部無くなっている上に、正面の扉が外されていて内部は吹き込んだ雪で
 真っ白であった。 そのため、その外された扉を一生懸命に直したのであるが、それが後で冷や汗を掻くことになるのであった…

 今回、この駅へは札幌駅を23:00に出る夜行特急 「利尻」 を翌朝5時前に幌延駅で降り、約6.2kmを歩く予定であった。 しかしご覧の通りの大雪で、タイムアウトの恐れが出てきた為、
 ヒッチハイクを思い立った。 こんな日も明けぬ早朝にかなり無謀な行為をしているのを半ば開き直って(笑)、通りかかった車に声を掛けると、あっさり 「イイですよ〜」 と快い返事を
 頂いた。 その人は新聞配達の叔父さんで、これから近くを通るので配達の途中で良ければ乗せてやるとの事で、有り難くお言葉に甘える事にした。 道中、新聞配達の模様を眺め
 つつ叔父さんとの会話を楽しみ、6:15頃にこの駅へ辿りついた。

 そして、叔父さんへ丁重に礼を言って別れると、駅周囲の探索と撮影を終わらせて待合室の中で暫し休むことにした。 ただ、雪が激しく吹き込んで来るので、暇つぶしに正面の扉を
 直してから暫し、薄暗い室内に佇んでいた。 やがて乗車する列車がやって来たので、待合室の扉を開けようとするのだが、途中で引っ掛かって出られない! 列車が行ってしまって
 は以後の計画に甚大な影響を及ぼすため、洒落にならない!  列車の運転士に扉から手を伸ばして大声で叫び、発車を待って貰った。 まあ、ガタガタと動かしているうちに扉は
 あっけなく開いたので、目的の列車には間に合ったのであるが、非常に焦った。  そして、この待合室の扉は再び外されたまま、この誰も訪れないような小駅を後にしたのであった…


FileNo.13 旭浜駅   利用者僅少のため、2006年3月18日のダイヤ改正にて廃駅となった。

室蘭本線 「旭浜駅」 荒涼とした大平原にあるこの駅は、本当に利用している人がいるのか疑問だ…

     

 駅の前には通行量の多い国道が通る。 駅の待合室?と思われる建物には施錠されていて入れなかった。  スーパー北斗が物凄い勢いで通過して行った。


  訪問日記  2001年1月3日 訪問

 この「旭浜駅」は、函館本線の分岐駅である長万部駅の隣にある。 果てしなく直線が続きそうな線路は非電化複線であり、対面式ホームは千鳥配置となっている。 その昔、
 単線時代には仮信号場であったため、交換設備の関係でこのような配置となったのであろうか。 しかし、この駅には待合室と呼べるものが無い。 この不気味なコンクリ製の
 建物は、元待合室なのかどうか不明だが、扉はガッチリ施錠されていて内部には入れなかった。 そして、周囲一帯には荒涼とした原野が広がっており、その直ぐ脇には交通量の
 多い国道37号線が通っている。人家と言えるものは、その国道37号線沿いにある“廃ドライブイン”一軒だけで、およそ人の気配と言うものを感じなかった。 場所的には太平洋
 (内浦湾)まで直線で100mという近さにあるのだが、背後には少し遠くに見える牧場だけで文字通り“何も無い場所”である。そして例の“廃ドライブイン”は当初は無人かと思われ
 たが、そのうちに“お婆さん”らしき人が出てきたので、住人は最低でも1人いることを確認した。(笑)

 今回、この駅には2駅先にある「小幌駅」を訪問した後に、長万部行きの列車での訪問となった。 当然降りたのは私一人で、物珍しそうに他の乗客や運転士の好奇な視線を浴び
 ながら降り立ったのだ(もうすっかり慣れてしまったが…)。 降りてまず感じたのは、この広大なロケーションである。 とても開放感があって、先程訪れた小幌駅とは2駅しか離れて
 いないのだが、全く正反対の性格?をしている。 暫くすると、踏み切りが鳴り響き、特急「スーパー北斗」のキハ283系が、物凄い勢いで雪煙を巻き上げながら、疾走していった。
 
 私はその後、長万部方面へ向かう車をヒッチハイクすることにした。 この交通量なら、もしかしたら捕まえられるかも知れないという微かな期待感もあって、試して見ること約10分、
 1台のライトバンが停車してくれた。 今回の秘境駅訪問旅で2度目のヒッチハイク成功である。 列車で洞爺へと向かうプランも立ててはいたが、長万部から山線で小樽まで行く
 プランを思い立ったため、実行したのである。 停まってくれた叔父さんはとても気前の良い人で、この近く(静狩)に住んでいいて、これから函館まで向かうとのことであった。 
 その途中、私の姿を見て寒い冬には珍しいと思って停まって見たそうだ。 暫く叔父さんと色々話しながら、目的の長万部駅に着いた。 丁重に礼を言って別れると、一目散に駅へ
 駆け込んだ。 しかし、小樽行きの列車は、ほんの2分前に出てしまっていた… (あぁ゛@@〜) っま 仕方ないですね〜。
 
 潔く諦め(るしかない…)、悔し紛れに駅前にある、有名駅弁のカニ飯製造元である“かなや”へ行き、大枚1000円を払って憧れだった駅弁をGETした。 そして、当初は洞爺駅から
 乗車する予定であった、札幌行きの「スーパー北斗3号」の自由席に乗車した。 結構混んでいたが、運良く窓際に座れたのでラッキーだった。 恐らく洞爺では席に有りつくことは
 難しかったと思われたので、ヒッチハイク成功の効果がこんな所に現れたのであった。 やがて列車は山間部に入ってもなお疾走を続け、トンネルを抜けた瞬間に見えた小幌駅を
 肴に、私はカニ飯頬張っていたのであった…(謎)  


FileNo.14 智東駅 利用者僅少のため、2006年3月18日のダイヤ改正にて廃駅となった。 
  (冬季閉鎖により事実上2005年11月30日で廃駅)



 雪の中、誰もやって来ることの無い宗谷本線「智東駅」 春になるのが待ち遠しい…


     

  類に洩れず、ここも「貨車駅」だった。  3月になるまでここは営業が停止される。  通過中に撮ったのでちょっと苦しい…  名所案内もあった。


  訪問日記   1999年12月10日と11の2度 通過中に観察

 この「智東駅」は冬季休業の臨時駅である。 従ってここに停車するのは冬以外ということになり、以前に停車する列車に乗車したことがあったが、写真など一切撮っていなかったし、
特に記憶にも残っていなかった。 そして今回、当初の計画を11月の時刻表で立てた時は停車する筈だったが、12月の時刻表で12/1〜2/29まではしっかり通過となっていることが
判明し、残念ながら計画の変更を余儀なくされた。 まあ、暖かくなったらゆっくりと訪れてみようと思う…。
駅の周囲は全く人家は見当たらず、すぐそばを天塩川が流れる山林の中にひっそりと冬眠している感じだった。 並行する道路も冬季除雪区間からは外れているため、
臨時駅となったのである。 よって、人間は冬の間ここには殆どやって来ることはない。 そして、列車は全く減速することも無くあっさりと通過してしまったのである。 

                                                    

                              辺り一面に広がる闇の世界。 駅の灯りがぼんやり燈る…    貨車改造の駅舎は深い雪に埋もれ、歩くところ全てが、私の足跡となった。

                                                       

                                  冬季休業中だが、幸い待合室は施錠されていなかった。 最終の特急「スーパー宗谷3号」が通過する。   “初公開” これが私の駅寝事情?である!

  冬季休業中に訪問しました。 2000年12月31日〜2001年1月1日 年越し駅寝敢行

 今回、この第3回北海道秘境駅訪問旅のメインイベント?となった、冬季休業中の厳寒時に、この智東駅で駅寝を敢行した。 そして、記念すべき21世紀を迎えるのに、
 最も相応しい場所としてこの駅を選んだのである。  周囲に人家は一軒も無い完全な無人地帯の山の中であるため、この智東駅以外の建物は見当たらない。 国道40号線は
 天塩川と挟んだ対岸から更に離れた場所を通っており、全く人気がない。 また、直ぐそばを通る車道もこの時期、しっかりと冬季閉鎖となっていて、深い雪で覆われてしまうため、
 車でも到達することは不可能である。
 そして、この駅に到達するのに、まず名寄駅からタクシーを使って行けるところまで行くことにした。 当初は、名寄で折り返して日進駅で下車し、4.7kmを夜間に歩いて訪問を行う
 予定でいた。 しかし、朝から重い荷物を背負って、かなりの距離を歩き続けていて、結構疲労していた。 そのため、今後の日程に必要な体力を維持した上で、数ある秘境駅訪問を
 確実に消化して行きたいと考えて、止む無くタクシーを使うことを決断した。

 先程、南幌延から乗車した普通列車は終点である名寄駅に18:36分の定時到着。 既に稚内で食料を調達していたので、駅前に沢山の台数が客待ちしていた先頭の車に乗車した
 のであった。 タクシーの運転手に、「早朝からの撮影のため、あの智東駅で泊まりたい」との問いに、ニコニコしながら無線交信で駅までの除雪情報を聞き出してくれた。 やはり、
 車道は除雪されておらず駅までの到達は無理とのことであったが、私は事前に附近の地理を調べていたので、「道道の先にある東恵橋」まで行って下さいと頼み、そこまで行って貰う
 ことにした。 タクシーは雪の中を慣れた手つきで相当なスピードで飛ばすので、東京出身ではあるが、一応林道のダート走行経験は長いと自負する私でも、コーナーの手前では
 恐怖で身が凍りつく思いであった…  

 やがて、除雪の最終地点へ到達し、約3700円を払ってタクシーのお叔父さんに礼を言って別れ、約200メートル程先にかすかに見える踏み切りへと向けてラッセル歩行を開始した。
 膝まで深雪に埋まりながら、なんとか線路へ到達し、そこからいよいよ智東駅へと向けて線路上を歩き出した。 かれこれ2km程は歩いたであろうか、ぼんやりと駅の灯りが見えて
 きた。 そしてやっと今晩の宿となる、貨車待合室の前へと立った。 もし、施錠されていたら如何しよう… もう祈る気持ちでドアの取っ手を回した。 幸いドアはあっけなく開き、
 室内にある長椅子になだれ込んだ(ふうっ〜)。 早速荷物を下ろし、カメラと三脚を抱えて外に飛び出して、あちこち撮影していると、やがて列車の汽笛が… 最終の稚内行きの
 特急「スーパー宗谷3号」であった。 それらを含めて今日(今年)の活動は終了とした。 

 今日一日の行動で腹が強烈に減っていたので、早速今夜の飯を作ることにした。 愛用のMSR製のXGKストーブに暖房を兼ね、点火した。 “農協ご飯”を温め、おかずには
 “ニシンの缶詰”と、寒さを少しでもカバーするために、高カロリーであるニンニクの漬物などを並べる。 実に質素で正月料理とは程遠いが仕方ない。 出来あがったので、夢中で
 ガツガツと食べてしまい、食後にコーヒーを沸かしてやっと人心地が付いた感じになった。 備え付けの駅ノートに、今日の日を記念してカキコするが、ここで駅寝をしたという記述は
 無かったかと思う。 外の気温はぐんぐん下がり、生憎温度計は持ち合せては居なかったが、-15℃ぐらいは余裕でアンダーしたと思う。 しかし、年越しをするほどの気力と体力は、
 既に無くなってしまい22時にはストーブを消して、シュラフに潜って深い眠りに就いた。 夜中に夜行特急「利尻」が上下2回通過したはずだが、そんなことには一切気づかなかった程、
 眠りは深かった。
 やがて、朝5時にセットした目覚ましに起こされ、寝起きのコーヒーを沸かす。 昨夜に散らかした物品をザックにパッキングしながら、出発の準備をする。 6時丁度に全て出発準備が
 整うと、いざ日進駅へ向けて何もかもが凍りつくような世界の中を、約4.7kmに及ぶ天塩川リバーサイドウヲーク?を開始した。  


FileNo.15 川上駅 2006年4月20日 路線廃止により廃駅となった。

    ちほく高原鉄道 「川上駅」 周囲に人家は一切無く、静寂だけが支配する…

     

    駅舎は古く味わい深い。 車が入ってきた跡もあるので、利用者がいるのだろう。     待合室内部は造り付けの椅子があり、駅ノートも完備。


  訪問日記 2000年1月1日訪問

 今回、ちほく高原鉄道の秘境駅を訪問するに当たって、最も秘境度が高いと思われるのがこの「川上駅」である。 そして、この駅のある陸別-置戸間は、人口希薄地帯を貫いて
 いる為に列車の本数も少なく、並行している国道も通行量が少ない。 駅の周囲は山林で人家が一軒も無く、真冬の夜間ということもあって静寂感はひときわであった。 更にこの
 路線の愛称である、「ふるさと銀河線」の名に相応しく、夜空には冬の星座が瞬いていて、言葉を失ってしまう程素晴らしかった。
 ここで小幌駅の撮影と同様に三脚を立てて、バルブ撮影に勤しむことにした。 気温は-15℃、しかし興奮して歩き廻る私に寒さは敵ではない!(危) そして雪まみれになって、
 何故かクリスマスの飾りが付けられていた待合室に入る。 そして駅ノートを書き込んでいると、乗車する列車がやってきた。 さあ、今日の秘境駅巡りはこれで終わり。 
 今夜の宿は特急「オホーツク10号」だ… 


     

  例年より雪が多く、3月になったというのに恐ろしく寒い。 駅前は国道が通り、時折通る車が五月蝿い。  待合室は落書きされていて、非常に残念…

    再訪日記   2001年3月10〜11日 駅寝敢行

 さて、4回目になった北海道秘境駅訪問旅の中で、唯一駅寝をする駅としてこの“ちほく高原鉄道”の川上駅を選択した。 理由は、厳寒時における駅寝の限界に挑もうという
 極単純明快な動機からだ(笑)。 ここは、道内でも屈指の最低気温を記録する地域であり、今回はこのために特別な装備を用意して道内へ乗り込んだ。 大きく嵩張り、且つ重く
 なった荷物は、実に山岳部系ボッカ訓練(要するに、不必要な荷物を背負っての登山訓練)的な行動となってしまった。 まあ、一般人から言わせるとただの「変態」であるが、
 自分の立てた目標は必ず達成させないと気が済まない性分だし、外見の格好などいちいち気にしていては始まらないのである。 
 ※別に顔見知りに会う訳けじゃないし、関係ないと思っている。
 実をいうと冬の北海道は、スキーで来たことを含めると6回目になる。 今までの経験では冬の北海道といっても泊まった地域やその形態にもよるが、そんなに寒くは感じていな
 かったので、ある程度は楽観的な気分でいた。  しかし、今回だけは違った・・・  
 
 先だって訪問した「薫別駅」を日が落ちかけた頃乗車した列車は、陸別駅で10分程度の列車交換まち停車となった。 その間を利用して、速攻で駅前のコンビニで酒や食料の調達
 を行い、そこから2駅目に位置するこの川上駅にやってきたのである。 周囲もすっかり暗くなり、冷え込みも一段と厳しくなってきた。 21:00現在の外気温は-20℃。今まで経験した
 最低気温は真冬に長野県の鉢伏山山頂(標高約2000メートル)で雪中キャンプとして、テントを張って迎えた早朝の-22℃が自己体験記録?であった。 そしてここは、これから朝に
 かけて更に低下する可能性は充分に期待できた。(危) 
 寒さに対抗すべく考えたキムチ系の夕飯も終わり、食後のコーヒーを頂きやっと体もほぐれてさあ、ビール!… と缶ビールを開けたのだが、既に凍り初めていてシャーベット状の
 半固体が喉を通った。 そして食器を洗って片付けようと水筒を開けるのだが凍って開かない。 携帯電話の液晶は表示されなくなるし、ラジオも聞いているうちにバッテリーが
 電圧降下したらしく、 ワナワナ言っていて非常に聞き苦しい。 更にコーヒーを入れたフィルターは挽豆ごとフリーズドライとなってカチカチになり、思わず苦笑してしまう。 
 何もかも常識外れなことが起きる世界であった。  これは、外張りを張った狭いテント内の方が遥かに快適であり、無意味に広い待合室内はそれだけで保温性は格段に落ちた。 

 そして、明日早朝の4:30に隣の分線駅までの4km余りを駅間歩きに出発するため、羽毛ジャケットをシュラフに詰めて保温を強化し、無理矢理寝ることにした。 夜中に顔を露出して
 いる部分が引きつって寝付きが良くなかったが、まあ4時間程度寝ることができた。 午前2時頃に小用で起きて外へ行くが、その後寝れなくなってしまった。 喉が乾いてビールが
 飲みたくなったので、なんとシュラフの中に入れて温めながら解凍を待って飲むことにした。 もう起きていても仕方ないのでそのまま朝を迎えることにして、ぱっぱと片付けてしまう。
 しかし、外は曇ってしまって?寒さが緩んだせいか、-18℃ぐらいになった。 先程と比べると少しは暖かいと感じる体はすっかり慣れてしまったようだ。 そそくさと出発準備を済ませて
 しまうと、もうここへ留まる理由はなくなった。 午前3時過ぎ、少し早いが隣の分線駅へ向け、並行している国道をヘッドライト(頭に装着する懐中電灯)を照らしながら歩き出すと、
 体がポカポカと温まって不思議と楽になった。 


FileNo.16 影待駅 2005年12月20日 台風災害によって路線廃止。事実上廃駅となる。

高千穂鉄道 「影待駅」 断崖絶壁にあるこの駅は、下の車道から辿り着くのに苦労する…

   

 簡素な待合室だが、目の前に五ヶ瀬川の渓谷を展望できる。 そして崖を上る急な階段は5〜6分かかる。 駅の入り口。人家が建っていた跡がある。


  訪問日記  2000年5月8日訪問

 高千穂鉄道「影待駅」である。 この駅は上の写真の通り、断崖絶壁という物凄い場所に建っている。 その為、駅前には人家は全く無く、下にある車道まで急な階段を5〜6分歩く。
 しかし、車道に出ても直ぐに人家は無い。 更に上流方向へ10分程度歩いた場所に、4〜5軒が寄り添うように固まっているだけの辺境の地に存在する駅である。 まるで、飯田線の
 「田本駅」の雰囲気と酷似していて素晴らしい。 また、この階段も古い鉄製の為に段部が錆びて穴が開いている部分もあって非常にスリリングだ。 時折藪の中でトカゲや蛇?が
 動く音がして豊かな自然を満喫しながらのんびりと降りて行く。

 以前は下の車道が通る右下の写真に見られる空き地に、一軒の人家があったようだが急傾斜のガケ地の為、立ち退き勧告を出されて移転してしまったらしい。 しかし猫の額程の
 小さな畑は今も作物が植えられており、以前の住人が列車で畑仕事のために来るのではと想像できる。 その後、車道を上流に向かって少し歩いたのだが人家がなかなか現れず、
 列車時間の事を考えて途中で引き返した。 そして、例の急な階段を息を切らせながら上って行くとうっすら汗を掻いて丁度良い運動となった。
 
 今回、九州秘境駅訪問旅でこの高千穂鉄道は急峻な地形を走っており、レベルの高い?秘境駅が存在する可能性が有り、期待に胸を膨らませてやって来たが、全くその通りの
 素晴らしい駅ばかりであり、秘境駅巡りの醍醐味を存分に味わえた。 また列車は1時間に1本程度は必ずやって来るので、短時間で効率良く駅訪問をこなせるのは有り難いのだが、
 「列車到達難易度」は低くなるので必然的にランクは落ちてしまう。 しかし、実際は一流の秘境駅としての雰囲気を備えているので訪問する価値は充分あると思う。
 やがて列車がやって来て乗り込み、隣の「深角駅」へ向けて長いトンネルに突入して行った…


FileNo.17 塩幌駅 2006年4月20日 路線廃止にて廃駅となった。

ちほく高原鉄道 「塩幌駅」 周囲は山林と原野 そして廃牧場が一軒だけ… 

     

 傾いて朽ち果てた待合室。 もう取り壊す気力も無いのだろう…   小さな牧草地なのか原野なのか判らない。   列車が淡々とやって来た。

  訪問日記   2000年1月1日 訪問

 この「塩幌駅」へは、隣の「西一線駅」より国道242号を約2Km歩いてやって来た。 しかもその「西一線」へは更に隣の「愛冠駅」から3.3kmあったので既に歩行距離は5Kmを超えた。
 しかし15キロ程度のザックを背負っていたので昼間ということもあり汗をかく程だった。 苦労の末たどりついたこの駅は、決して期待を裏切るようなことはない素晴らしい秘境駅で
 あった。 なにせ周囲にある人家らしき物は小さなサイロを持つ廃牧場が一軒のみで、まったく人影がない。  国道は直接見えないが近いようで、時折車が通過していく音がかすか
 にするだけである。 そして、待合室は入室を拒むかのように、朽ち果てて傾いている。もう役目は終えたのだろう。 取り壊すのに金がかかるのか自然に還るのをひたすら待って
 いる感じであった。 昼飯時となったのでホームの上でカロリーメイトを食べ、コーヒーを沸かしてのんびりと過ごす。 何だか今この世から取り残された疎外感を感じるが、それは
 それで大いなる自由を意味しており、この界隈一帯は自分のテリトリーと化するのであった(勝手モード ^^;) 。
 やがて静寂を打ち破り一両の列車がやって来る。 しかしこの列車も少し先の「笹森駅」で乗り捨て、また「大誉地駅」まで4.3Kmの徒歩が待っているのである。


FileNo.18 薫別駅 2006年4月20日 路線廃止により廃駅となった。

北海道を象徴するような雄大な風景の中、滅多に列車が停まらぬ駅がポツンと佇む…

              

           ホームから少し離れて、トタン板の剥がれた駅小屋が建っている     バックはだだっ広い牧草地だが、この時期は真っ白な広場になる。     

             

       待合室内部のこの椅子には、何か引き付けられるものがある      後ろの木柵が似合っている板切れホームには3両くらい停まれそう
 

    訪問日記   2001年3月10日 訪問

 さて、この薫別駅も詳細は前出の通りで紹介するまでもないが、この“ちほく高原鉄道”の数ある駅の中でも利用者数は極少ない駅である。 それは、この路線が年間4億円の
 赤字を生み出している経営難の3セク鉄道であり、経営再建のためにも利用者の殆ど居ない3駅(様舞、川上そしてこの薫別)を2000年度中に廃止すると昨年、道新(北海道新聞)
 の紙面に掲載されたのである。 利用者の少ない駅=秘境駅 という図式が当然出来あがる訳で、訪問が叶う前に廃止されてしまっては、後悔の嵐となることは火を見るより
 明らかであった ※現在はまだ大丈夫のようだが・・・
 昨年の冬にもこの地を訪れたのだが、作成したプランの関係で快速「銀河」での通過となってしまったため、今回晴れて乗降を伴っての訪問と相成った。

 今回、根室本線の初田牛駅を訪問した後、釧路より特急「スーパーおおぞら8号」を池田まで乗車し、快速「銀河」に乗り換えて「ちほく高原鉄道」へ分け入った。 例の様舞の他に
 大森、そして前回訪問した西一線、塩幌、笹森などを含めてこの薫別も豪快に通過して行き、一気に隣の陸別まで乗り通した。そこで列車の交換となるため、停車していた対向列車
 に乗り一駅戻ることによって、この薫別駅へ降り立つことが出来た。 降りたのは当然?私一人。 よほど珍しかったのか、運転士が「ここで降りてどうする?」と問うて来た。 
 私は、「風景撮影です」と言ってニコニコしながら運賃を払いつつ、軽く礼を言って列車を降りた。 

 そして、あの例の待合室へ足を踏み入れて愕然とした。 物凄い荒れ様だ。 ただ、人が意図的に荒らした訳では無いようで、大自然の猛威に曝されて、朽ち果てていく途中である
 といった感じだった。 扉は腐って外され、板の床は剥がれ、窓のガラスは一部が割れている他、屋根のトタン板まで剥がれており、まるで“満身創痍”という言葉がとても似合っている。
 そして薄暗い内部には“芸術品”ともとれる程素晴らしい華奢な丸太椅子があって、実際に座ると適度にたわむものの、優しく体を受け止める感じで、見てくれ以上に快適な座り心地
 だった。
 次の北見方面行き列車まで約1時間半は、外へ出てあちこち撮影したり、中で次の日のプランを考えたりしながらノンビリと過ごした。 やがて、日も傾くと猛烈な寒さが襲ってきた。
 急いで上着部分を羽毛ジャケットに切り替え、オーバーパンツを装着して寒さを凌いだ。 寒風吹きぬけるホームの上で待っていると、遠くからカタカタとレール音をコダマさせて列車
 がやってきた…


FileNo.19 笹森駅 2006年4月20日 路線廃止により廃駅となった。

ちほく高原鉄道 「笹森駅」 林の中に目立たぬ様、ひっそりと佇んでいる…

      

その名の通り、林の中には熊笹が生い茂っている。   片面ホームだけで待合室は無い。         周囲は人家も無く、保線小屋が1棟あるだけ。 


  訪問日記  2000年1月1日 訪問
 この「笹森駅」へは、先ほど訪れた「塩幌駅」から2つ目となる駅であり、そちらの駅と同様に停車する列車も限られるために、列車での訪問は困難と思われる。 そして、今回も
 限られた日程でのプラン作成に悩んだ末、隣駅まで歩くという必殺技?を使わざるを得なかった。 まあ、進行方向にあるいているので、極僅かだが運賃の節約にも貢献している
 だろう(通しで乗るよりは高くついてしまうが…)。
 2駅乗った列車から降りたこの駅は、林の中にあって人家は確認できない。 見えないが国道からは近いようで、時折通過する車の音が聞こえてくるのが周りの雰囲気が良いだけに
 少しばかり残念である。 ホームだけで待合室もないので、撮影を終えるとやることが無くなってしまった。 そしてゆっくりと、隣の「大誉地駅」へ約4.3kmの道のりを歩き出した…


FileNo.20 亀ヶ崎駅 2005年12月20日 台風災害によって路線廃止。事実上廃駅となる。

高千穂鉄道 「亀ヶ崎駅」 正面にはゆったり流れる五ヶ瀬川。 そして静かな時は流れる・・・

     

  駅の待合室は簡素だが、とても綺麗に手入れされていた。  美しい五ヶ瀬川の渓谷に沿って、高千穂鉄道はのんびりと進んで行く。


  訪問日記  2000年5月8日 訪問

 高千穂鉄道 「亀ヶ崎駅」 であるが、この駅は上の写真に見られるように、五ヶ瀬川渓谷の川辺にある駅である。 周囲に人家は1軒見えるだけでとても静かな環境である。
 車道は対岸に国道が通っているだけで駅まで到達できる車道は見当たらない。 そして、駅のホームには恐らくここから見える一軒の人家の方が沢山の草花を植えたり、鉢植え
 を飾ったりして、この駅に対する愛情がひしひしと伝わってきた。 こういった長閑な空気が流れる駅で、列車を待つ時間というのは、一見すると無駄な時間と取られるかも知れない
 が、少なくとも私にとって雑多の日常を忘れさせてくれる、至福の時間である。

 今回の「九州秘境駅訪問旅」で高千穂鉄道のこういった駅を、影待・深角・上崎とそれぞれ乗降して、4駅目のこの亀ヶ崎がこの線最後の乗降駅となった。 夕方になって高千穂行き
 列車でこの駅を降りたのだが、他に駅前の一軒の人家に住んでいると思われる叔母さんが一人降りただけで乗ってくる人はいなかった。  しかし、上下列車の組み合わせでこの駅
 での滞在時間は僅か10分程度であった為、じっくりと観察することができず、少し慌しいものになってしまったのが残念であった。  駅の待合室へ書き置きを残し、直ぐに列車が
 定時でやって来たので乗り込むと列車は発車して行く。  何だかこの川辺にある駅から引き離されて行くのは少し寂しいものがあった・・・


FileNo.21 深角駅 2005年12月20日 台風災害によって路線廃止。事実上廃駅となる。

高千穂鉄道 「深角駅」 大自然に囲まれたこの駅は小鳥のさえずりと共にゆったりとした時間が流れている…

      

     深い山間にひっそりと佇むこの駅は長いトンネルと高い鉄橋に挟まれて人を簡単に寄せ付けない。   鉄橋から下界を見下ろす (怖い…)

  訪問日記  2000年5月8日訪問

 高千穂鉄道の「深角駅」である。 この駅の周囲はタバコ栽培農家が1軒あるだけで、国道からも遠く外れており、狭く屈曲した舗装路でしか辿り着けない。そして、駅の直ぐ際には
 恐ろしく高い鉄橋があって、そこから見下ろすと遥か下の方に上流の五ヶ瀬川と狭い道が見えるという物凄い地形に存在している。 駅構内には側線が通っていたスペースが残って
 おり、昔はここで列車の交換がされていたと想像できる。 待合室は国鉄時代の物ではないが、ご覧の通りこの静かな佇まいに意外とマッチしている可愛い建物で好感が持てた。
 こんな場所だから、当然のことながら利用者は殆ど無く、何の為に駅は存在しているのか疑問に感じる程であるが、私のような秘境駅探訪を趣味としている人間にとっては最高の
 環境といえる。
 今日は高千穂鉄道の秘境駅訪問ということで、先ほど訪れた隣の「影待駅」から引き返してこの「深角駅」に降りた。 その先の訪問駅も同様に行きつ戻りつしてその度に運賃を
 払い続けたので結局、延岡まで進むのに通常1470円で済む所を2200円近く掛けてけて行った。 しかし、その差額など全然気にならない程素晴らしい駅ばかりであり、この「深角駅」
 も後ろ髪(無いが…)を引かれる思いでやって来た列車に乗り込み、後にしたのである…


FileNo.22 分線駅 2006年4月20日 路線廃止にて廃駅となった。

     

  寒い夜、小さな待合室に燈る暖かな光。 たった、それだけでも心が和む…  朝になり、辺りがやっと明るくなった。 列車を待つ間、動いていないと辛い。
 
   訪問日記  2001年3月11日 訪問

  今回、この「分線駅」の訪問は、早朝に停車する一番列車に乗車するため、隣の「川上駅」から徒歩で到達した。 距離的には4.1kmの営業キロであり、並行する国道242号線を
 通っても殆ど距離は変わらない。 おまけに、川上駅より標高が低く下り坂となるので、意外と楽に到達できた。 午前3時が過ぎ、川上駅を出発した私はとても綺麗に整備された
 国道242号線を、分線駅方面へと歩き出した。 頭には乾電池で点灯するナショナルのヘッドランプを点灯させていたが、満月の夜はこれを拒絶するかの如く明るかった。 
 また道路は完全に除雪されており、アイゼンを付けて歩行する必要もなく、川上駅で寒さに耐え忍んでいるより歩いているほうが遥かに快適であった。 こうして歩いて向かう道中で
 見かけた車両は2台の長距離トラックのみで、彼らから見て、私の存在はとても不気味に写ったことであろう。(苦笑)

 やがて、立派な跨線橋を渡ると遠くに分線駅な灯かりがボンヤリと見えた。 だだっ広い雪原にポツンと存在しているという、実に素晴らしいロケーションである。 待合室に燈る白熱
 電灯の優しい光は、それだけで旅人の心を和ませるのに充分な魅力があった。 私はソレに吸い寄せられる“蛾”のような気持ちになってこの待合室の扉を開けた。 狭い室内は
 造り付けの長椅子もあって、川上駅に比べるとこちらのほうがこの時期の駅寝には向いているような気がした。 切り出しの木材をそのままに使って造られたこの待合室は、まだ
 経年も少なく“木の香”がほんのりと漂っていた。 駅ノートもあったので早速書きこみを行う。 良くみると設置されたのは、ここで紹介した「やべっちさん」ではないか! 
 北見に在住する彼は、私の気になっていた秘境駅の一つであったこの駅を訪れた際に置いて行って下さったのである(感謝)。

 また、ミーハー染みた情報を一つ。 この駅は映画「GTO」のロケ地である。 あの反町隆史が列車の前に立ちはだかってを停めてしまったシーンはこの附近で撮影されたそうだ。 
 まあ、映画では相手役に藤原紀香が起用されているので、私のイメージ的にはTVドラマバージョンの松嶋奈々子であったが。 まあ、ここでそんな話しをしても仕方のないことで
 有るので、そちらの話題については割愛させて頂く。 そして、朝になり辺りが明るくなりだしたころ、猛烈な寒さが襲ってきた。 手元の温度計は-25℃近くなり、それなりの装備を
 していたが、足の指先が冷たくなってきた。 ゴツイ登山靴であってもコレ以上は防御できない。 こうなったら動くしか無い… 僅かな時間であったが列車を待つ間、私はホームの
 上を無意味に行ったり来たりしていたのであった…  


FileNo.23 様舞駅 2006年4月20日 路線廃止にて廃駅となった。



 ちほく高原鉄道「様舞駅」 夕暮れと共に訪れる寒波に身を震わせながら、独りホームに佇む不思議な時間・・・

                   

      小さな待合室の横に捨てられた1台の赤い自転車。 その車体は赤く錆び、タイヤは潰れ、健気に主人(あるじ)を待っている様子も無い・・・

   訪問日記   2002年1月7日 訪問

 この駅はちほく高原鉄道の起点となっているJR根室本線の池田駅から一つ目の駅である。 周囲に見える人家は4軒ほどで、駅のすぐ前を道道237号が走ってはいるが、国道は
 利別川の対岸を走っていて線路沿いは人家も少なく寂しい場所だ。 一帯は酪農地帯で、周囲の見晴らしはそこそこ開けてはいるのだが、「何も無い」という言葉が本当に良く似合う
 風景である。  ここを停車する列車は快速「銀河」を含め、一部の普通列車も通過してしまう程で、そのためか利用者は年間を通じても皆無に等しく、2000年2月に示された、
 ちほく高原鉄道経営改善計画案で、薫別駅、川上駅とともに一旦は廃止対象駅となってしまった。 しかし、その宣伝効果? が効を奏したのか、今まで目に付かなかったこうした駅
 が、若干ではあるが観光客? もとい、秘境駅訪問者が訪れるようになったことで廃止を免れたのは誠に幸運なことであった。

 さて、今回の私の旅は、東追分駅を訪れた後に追分駅へとタクシーで戻り、駅近くの食堂で昼食(カツ丼)を食べ、特急「とかち5号」の乗客となった。車内は比較的空いており、
 雪多い夕張の山々を分け入って日高山脈を貫き、十勝平野の中心地である帯広に到着した。 そして、先行していた新得発釧路行きの普通列車に乗り換えて池田まで進み、そこ
 からたった一駅であるこの駅に降りるためだけに、ちほく高原鉄道の列車に乗り込んだ。 発車してから6分、距離にして5.7kmを230円という大金?を払って、独り夕暮れ近くの寂しさ
 極まるこの駅に降り立ったのであった。  辺りが暗くなる前にいそいそと写真撮影を済まし、ホット一息つくためにこの小さな待合室へと入った。 ここにも駅ノートがあり、それを読もう
 とするのだが、電気の無い真っ暗な室内ではとても読めない。 そこで携帯してきた懐中電灯の明かりだけを頼りに、暫し読み耽っていた。 狭い室内というものは、それだけで
 窮屈な気持ちにさせられるものだが、周囲の気温が急激に落ちていくという環境下では返って良好な居心地を提供してくれた。
 
 小一時間経って、池田まで戻る列車がやって来たので乗り込んだ。 運転士さんは多少怪訝な顔をしていたが、こうして短距離ながら来た時と同じ料金を払って乗る立派な?乗客
 なのだ。 まあ、退屈な日常の中でこれほど珍しいことも起きると、乗務終了後での仲間との話のネタにされていることであろう。 定刻通り池田駅に到着し、夕食となる弁当を仕入れ
 て釧路行き普通列車に乗り込んだ。 旅が長いせいか、少し疲れが出ているようだ。 今夜は駅周辺のビジネスホテルにでも泊まろうか? そう考えながら、漆黒の闇の中を鈍足の
 列車に揺られるのであった…


FileNo.24 西一線駅 2006年4月20日 路線廃止により廃駅となった。

ちほく高原鉄道 「西一線駅」 国道沿いのこの駅は案内標識も無く、存在までもが忘れ去られている…

     

  周囲には国道を挟んで人家は3軒ほどある    駅名標だけが妙に新しく綺麗で風景から浮いている      恐ろしくボロイ吹きさらしの待合室


  訪問日記  2000年1月1日 訪問

 今回は北海道秘境駅訪問旅も第2回となり、まず第3セクターとして辛うじて生き残った「ちほく高原鉄道」の秘境駅の訪問に取りかかった。 札幌駅で早朝に快速「ミッドナイト」から
 スーパーおおぞら1号へ乗り継いでこの鉄道の始発駅である池田駅へ9:35頃に到着した。 昔のキハ82系特急で滝川を経由して走っていた頃と比べると随分早くなったものだ。
 そしていよいよ「ちほく高原鉄道」へ乗りこむ。 もちろんJR同様1両のワンマン運転であり、今回訪問する「西一線」「塩幌」「笹森」は残念ながら通過していまう列車のため、西一線駅
 のひとつ手前の「愛冠駅」で下車して徒歩で向かうことにする。 もしかしたら運転士に事情を説明すれば降ろしてくれそうな気がするが、列車のダイヤを変えてまで訪問するのは
 邪道と心得えているので敢えて3.3Kmを歩くことにした。 結構交通量の多い国道を足早に歩いていくと薄っすらと汗を掻くほどで、日も高く寒さはあまり感じない。 数々の車が通過
 していくのを見送りながら45分くらい経った頃にこの駅へ到着したのである。

 駅の周囲に人家は3軒ほどで国道が直ぐ脇を走っているので秘境といったイメージは少ないが停車する列車が少ないので列車で訪問するのは難しい。 板切れのホーム、恐ろしく
 ボロい木造吹きさらしの待合室、朽ち果てて割れた便器のあるトイレなど数々のアイテムが寂しい雰囲気を盛り上げる。 そして、丁度お昼時となったのでこの待合室でカロリーメイト
 で軽い昼食を取った。 次はおよそ2Km先の「塩幌駅」だ。 また例によって味気ない国道を歩き出したのである…


FileNo.25 上崎駅 2005年12月20日 台風災害によって路線廃止。事実上廃駅となる。

高千穂鉄道 「上崎駅」 緑の待合室が印象的なこの駅に、やって来るのはツバメばかり・・・

    

  目前に中流域となった五ヶ瀬川を望み、緑色をした独特の待合室を構える。 待合室内部にはツバメが巣を作り、度々雛にエサをやる為にやって来る。

 訪問日記  2000年5月8日 訪問

  この「上崎駅」は五ヶ瀬川も川幅が大分広がり中流域となった感じの所にある駅である。 しかし、国道は対岸を通っているのでこの駅に通じる車道は狭く屈曲した道しか無い。
  周囲に人家は2軒だけであるが、何故か駅のホームに直接バイクが停めてあったので、更に山奥からこの駅を利用している人がいると思われる。 この駅を訪問する為に昼下がり
 に延岡行きの列車で降り立ったが私以外は誰も降りず、乗ってくる人もいなかった。  まず、上の写真の通りの強烈な緑色をした待合室が印象的であった。 そして、一通り周囲の
 観察および撮影を終えて、待合室へ入るといきなり“ツバメ”が入って来て吃驚した。 そう、待合室の天井にツバメの巣があったのである。 そして2〜3分おきぐらいに親鳥が孵った
 ばかりの雛鳥にエサを与える為に舞い戻ってくる。 そんな微笑ましい光景は、ずっと見ていても全然飽きることがなかった。

 滅多に人がやって来ることもないせいか、待合室の中の私に警戒することも無く、極自然に振舞うツバメに暫し見とれていたが、無情?にも乗るべき列車はキッカリ定時にやって来
 たので乗りこんだ。 そして、次の目的とする2駅先の「亀ヶ崎駅」へ向けて力強く走り出した…


FileNo.26 豊住駅 2006年4月20日 路線廃止により廃駅となった。

        北海道ちほく高原鉄道 「豊住駅」 板切れホームに物置のような待合室 これは北海道の仮乗降場のスタイルそのものといえる。

                                               

                                              

 やべっちさんの訪問記録   以下受信メールより抜粋して掲載。

  
北見−置戸間を結ぶ交通量の多い道道と、広大な畑をはさみ、向こう側に町道が平行して走っている。  その中間を平行して鉄道が走っていて、駅はちょうど畑の真ん中にある。 
 町道からは約200m、道道からは約500m離れており、両者を未舗装の農道が結んでいる。 周辺には数軒の民家と、農業関係の倉庫・工場が数軒ある。  実際ホームに立って
 廻りを見渡すと、結構多くの建物が見えるが、周囲を遮るものがない為で、どれだけ離れているかは到底見当がつかない。


  そして、私の感想です

 この度は、「ちほく高原鉄道」の秘境駅調査、お疲れさまでした。 この「豊住駅」ですが、前回私が列車で通りかかった際は真冬であり、しかも夜になってしまって、周囲の状況が
 良く判らない状態でした。 今回、やべっちさんの調査でこの駅の詳細が明らかになってきたため
、独立したページで紹介することにしました。 そしてこの駅は、ご覧の通りの北海道
 の郊外にみられる典型的な牧草地と農地が一面に広がる大陸的な景観で、駅も板切れホームと簡素な待合室だけのようですね。 秘境という風情には乏しく、列車本数も多いので
 ランキングは下がってしまうのは仕方有りませんね…


FileNo.27 鹿波駅 2005年3月31日 路線廃止により廃駅となった。

                           

  訪問日記   2000年6月9日 訪問
 
 わたしも、かわっぺさんの訪問記録に刺激され、今回は能登半島へバイクでやって来た。 この「鹿波駅」だが、やはり駅周辺に人家は無く不気味な廃商店と保線小屋があるだけ
 である。 恐る恐る保線小屋の中に入ると、ご覧のように地面から“蓮”が生えており、天井から針金で吊るされた外れた煙突がブラブラしていて、これはもう「恐怖スポット?」と
 言わんばかりの雰囲気に少々ビビッてしまった。 
 
 バイクで雨の中、県道から分岐して「鹿波」の標識に従って更に進むと、田圃の向こうに駅らしきものが目に入ってきた。 駅やその周辺を撮影していると時間は丁度昼時となり、
 腹がとても空いてきた。 待合室に入って、早速昼飯とする。 といっても「マルタイ棒ラーメン」を茹でるだけであるが。 ラーメンを食した後はコーヒーを入れ、次の列車がやって
 来るまでのんびりする。 やがて、やってきた蛸島行きの列車からは、一人の高校生が降りた。 彼は下の駐輪場に停めてあった自転車で海沿いにある集落へと坂道を懸命に漕い
 でいく。 私もバイクを発進させ、隣の「甲駅」へと向かって行った…


FileNo.28 白丸駅 2005年3月31日 路線廃止により廃駅となった。

 
                            

 そして、私も訪問しました。  2000年6月9日 訪問

 今回は、飛騨・能登秘境駅訪問ツーリングとして、この「白丸駅」にオフロードバイクでやってきた。 やはり駅の周囲に人家は見えず、県道より駅への標識に従って、狭く薄暗い
 舗装路を進むと小さな陸橋が有る。  橋の上から右側のほうに小さな駅が突然現れ、やはりそこが「白丸駅」だった。 待合室はコンクリ造りの質素なものであるが、締め切り
 も可能で造りつけの長椅子も設置されており、快適な駅寝が出来るだろう。そして、駅前の自転車置き場には使われていないと思われる赤い自転車が1台きり。 その右側に
 丸い古井戸の跡が不気味に残っている。 井戸の中は殆ど埋められていて当然落ちる心配はないが、何故こんな所の有るのか不思議である。 以前はここにも人家が存在した
 のかどうかは不明である。 やがて、穴水行きの列車がやって来て停車するのだが、誰も乗降しないで発車して行く。 私もバイクに跨り、この薄暗い山中の駅を後にして、同名で
 ある白丸の集落へ行ってみることにする。 そこは農道を約2〜3Km程度進んだ所に有ったが、駅を利用するのにあまり便利であるとは言いがたい。 その後も“のと鉄道”の各駅を
 確認しながら進んだのだが、「秘境駅」と呼べるのは先の訪問した「鹿波駅」とこの「白丸駅」以外には確認できなかった。


                                 FileNo.29 漆山駅  2006年11月30日 路線廃止により廃駅となった。

神岡鉄道「漆山駅」 人家は遠く、林の中にひっそりとと佇んでいる…

       

 最終列車を見送っていよいよ駅寝となる。  待合室にはマイレール文庫と呼ばれる本棚に本が沢山ある。  しかし、21:10には自動消灯 (;;)

  訪問日記   2000年6月8日と10日に訪問(駅寝2泊)

 今回は、神岡鉄道・のと鉄道の秘境駅訪問は、我が愛車であるSUZUKI DR250Rというオフロードバイクでのツーリングを兼ねて行ったのである。 このバイクは250cc4サイクル
 DOHC単気筒で、31ps程度の実力であるが、同クラスのオフ車ではトップの性能であり、とても軽くて機動性に優れている。 しかも、燃費も30Km/Lは行くので非常に経済的である
 のでとても助かっている。 
 しかし、今回は時期が悪かった。 なんと梅雨に入ってからということで、道中の殆どは大雨にたたられて、あちこちびしょ濡れだし疲労はピークに達した。 時間と経路が自由に
 選べる半面、トラックの排ガスに悩まされ、更に事故や違反などのリスクなどを考えると、列車の旅が理に叶っている感じがする。 事実、今回は出発早々になんと現住所の市内
 某所でイエローラインを超え、遅い車を2〜3台ブチ抜いたところ、白バイに捕まるという失態を犯してしまった。 もう、初っ端から気分はブルーが入ってしまうし、翌日からはず〜と
 雨だし、何だかモノ悲しいものが有った。 さて、その先であるが、中央道の相模湖I.Cより高速に乗る。 塩尻I.Cからは農道とR158で安房峠をトンネルで超え、途中の栃尾温泉で
 無料の露天風呂に浸かる。 更にR471で上宝村を抜けて、今回の「神岡鉄道」の本拠地である神岡町へ出た。 コンビニで弁当を購入して少し走ると今日の最初の訪問駅である
 この「漆山駅」へと辿り着いた。 

 駅はR41から川を挟んで対岸の林の中にひっそりとあり、周囲には人家は見えず、秘境駅の資格は充分にある。 待合室は古い鉄筋構造だが、密閉性が良く、適度な広さで暖かい。
 しかも、造りつけの長椅子は幅広タイプで駅寝にはうってつけであった。 やがて最終列車を見送ってから早速寝床の準備。 弁当を食べ、ラジオでナイター中継を聞きながら、
 マイレール文庫の本を読んでいると21:10に自動消灯。 外の公衆電話の明かりだけがボンヤリと灯る。 もう、今日は何もしたくないし、明日はハードになりそうなのでさっさと寝る。
 闇の中、外は雨が降ってきたようだ。 そして、翌朝は大雨。 カロリーメイトとコーヒーの朝食後にいよいよ出発。 2日後、またこの駅に一晩お世話になろうとはこの時は思っても
 見なかった・・


FileNo.30 菊水山駅 2005年3月26日のダイヤ改正に営業を休止

                            神戸電鉄有馬線 「菊水山駅」 神戸市の郊外だが、深い森の中にある摩訶不思議な駅である…

    
          駅の周囲に人家は無く、水道施設が見えるだけである。   ホームからの景観はこんな感じで、神戸から約10分とは思えない程凄い場所にある。

  訪問日記  2000年9月2日 訪問

  この駅は、神戸電鉄有馬線の「菊水山駅」である。 神戸市の中心街からほど近い新開地駅から約10分、こんなとんでもない山の中に何故かこの駅は存在している。 
 電車の本数はかなり多いが、この駅に停車するものは鈴蘭台もしくは西鈴蘭台発着の電車に限られている為、時間帯によっては2時間近く間隔が開くことがあり、訪問する際には
 充分な注意を要する。 
 今回、私は関西秘境駅訪問旅として、いままでの秘境駅訪問旅シリーズでは空白地帯であった関西地方へ、始めての調査をすることとなった。 青春18きっぷを利用する貧乏旅行
 であり、即席でプランニングしたため「M.ながら」の指定券は取れなかった。 その為に品川駅から臨時大垣夜行に乗って行く訳だが、我が地元の西八王子駅を出る時に毎度お
 馴染みになった中央線の人身事故の影響で、新宿-東京間はSTOPしていて、残された区間のダイヤもメチャメチャであった。 流石にこのままでは不味いと思い、立川で南武線に
 乗り換えて川崎経由で品川へ向かった。 時間的には充分間に合ったが、既に目的の列車は入線した後… 金曜日の夜ともあいまって既に満席で仕方なく先頭車のデッキに落ち
 付くことにした。

 やがて発車したが、終電の役割を果たしているせいか、途中駅から物凄い人数が乗りこんで来て、平塚あたりまでは殺人的な混み方となってしまった。それでも何とか小田原あたり
 で落ち付いたが、とうとう30分程度ウトウトしただけで名古屋駅に滑りこむ。 そして、あっさりとこの電車を捨てしまい、贅沢?にも米原まで新幹線で行くことにした。 約3000円の
 出費は痛かったが、なんと1時間も短縮できる上に乗り換えによる席取り合戦からも開放され、そのまま新快速で神戸までを転換シートの窓側で寝て行けるという計画は、以外と
 快適で充分な価値があった。
 そして、神戸駅に降り立つのだが、新開地駅がどうやって行って良いか判らず、思わず通行人の叔父さんに聞くと、“地下道をずーと1kmは歩く”とのことであった。 そして蒸し暑い
 地下道を黙々と歩き、やっと新開地駅に辿り付いて菊水山駅までの乗車券を買う。 片道400円! 高いっ高すぎる!僅か10分の道のりで、これはないだろうと思った。 しかし、
 その理由は、後日とある神戸市に住む読者から頂いたメールによると、新開地駅から400m隣の湊川駅までは“神戸高速鉄道南北線”であり、その湊川駅からだと“290円”とのこと
 である。 そんなこと全然知らない私は往復とも新開地から乗車したのであった。 ただ、神鉄(神戸電鉄の略)の電車は、全てが新開地駅ら発車しているので、極自然な成り行き
 に従うとやはり高い運賃を知らずに払うことになるので注意されたい。 JR神戸駅から約1.0kmを歩くくらいなら、近くの高速神戸駅から菊水山までの乗車券を“410円”で購入後に
 新開地で神鉄に乗り換えて行くという手もあるそうだ。 う〜む… (貴重な情報有難うございました)

 さて、話しが逸れてしまったが、私の乗った鈴蘭台行きの電車は湊川駅を過ぎるとやがて地下から出る。 そして、そのまま山の中へ吸い込まれるように進んでいく。 前方から
 注視していると何と50‰という物凄い勾配を上っていることに驚きつつ、程なくこの「菊水山駅」に到着した。駅を降りて周囲を散策するが、人家は一切無く延々と続く階段を降りて
 行くと眼下に渓谷が見えてくる。 先程までの都会の喧騒が嘘のようで、何だか急に異次元空間に入り込んでしまったかのような錯覚に陥った。 時は9:00頃となり、夏の暑い日差し
 が容赦無く照らし、蝉の鳴き声が辺りを支配している中をトボトボと歩く。 やがて車道に出たのだが、水道施設があるだけでその他は何も無く、そのまま駅に戻った所で運良く
 停車する電車がやってきたので乗りこむ。  そして、また元の神戸市街へと戻って行くのだが、なんだか現実に引き戻されたような気がして複雑な気分になった… 


FileNo.31  田子倉駅  2013年3月16日のダイヤ改正で廃駅となった



この “田子倉駅” は、真冬の豪雪や雪崩から保護する為、スノーシェードの中にホームがある

      

 一瞬、除雪車の倉庫かと思わせる          駅名標は味わい深いものがある          駅の入り口  ここから階段で下って行く

  訪問日記  1999年11月20日 訪問

  ここは日本有数の豪雪地帯で大規模な発電用ダムを擁する田子倉湖畔にある。周囲に人家は一切なく、奥只見の山々を歩く登山者のための休憩施設があるだけだ。
 傍らを通る国道252号線は、冬季は積雪のため閉鎖となる。しかし、誰も降りることの無い季節にも関わらず、昭和46年の開業以来、永らくここに停車し続けた。その後、
 これが余りにも無駄な行為と気付いたのか、平成13年より12月〜3月は全列車が通過する「臨時駅」に格下げになった。最大積雪が数メートルまで達するという厳しい
 自然条件のため、駅は丸ごとスノーシェッドに覆われている。コンクリートと金属に囲まれた内部は、昼でも薄暗く殺風景だが、無事に春を迎えるためには、欠かすことの
 出来ない大切な装備なのだ。
 
  今回の訪問は時間的制約から車での訪問となってしまった。まず、只見線に沿ってを新潟県側から入り、“柿ノ木駅”の訪問を終え、国道252号の六十里越峠へ向けて
 車を走らせた。途中、“大白川駅”にも寄ってみた。ここでは対向列車の交換が行われ、冬季は除雪作業の拠点のために有人駅であった。更に車を進めると、“これでもか”
 というほどつづら折れのカーブが続き、ハンドルを回す腕が疲れてくるのが判るほど。やっとの思いで峠の頂上に出て、眼下に田子倉ダムと朝日岳を望むダイナミックな
 風景に圧倒された。峠を下り、スノーシェードの工事のため時々工事信号に捕まりながら、この“田子倉駅”へと到着する。列車であれば、大白川駅からたったの一駅なの
 だが、キハ58系などの古参気動車は長〜いトンネルの中を、それこそ壊れてしまうかと思わせるほど“グモり”ながら、23分もかけてやってくる。このような険しい峠を進む
 うちに一瞬、除雪車か何かと思わしき倉庫が見えてきた。

 良く見ると“田子倉駅”の表示がある。注意深く運転していないと見逃してしまいそうだ。この得体の知れない建物の脇に車を停め、入り口からコンクリの寒々とした階段を
 下ると薄暗いホームがあった。そこには白いプラスチックのベンチがあるだけで、ここで駅寝をするのは正直私で抵抗がある。 夏は涼しいかも知れないが、11月も下旬と
 なった今、あまりにも侘しい。ここで寝るくらいなら近くの山でテントを張ってキャンプした方がまだ良いと思われた。確かに周囲は極端に険しい山中にあって“秘境駅”とし
 ての立地条件は文句無くトップクラスなのだが、どうにも駅としての味わいが薄い。どこか、黒部峡谷鉄道のそれと似ており、生い立ちが電源開発を目的としていてるせい
 か、生活感が全く見えないからであろう。ひとしきり雨が強くなってきた。恐らく下界へ出れば晴れると思いながら、カーブの険しい国道を只見へ向けて降りて行った。