2002/02/28 作成
大滝駅
奥羽本線「大滝駅」 深い雪の中、委託のおばちゃんがしっかり駅を守っていた
現在は列車の交換が出来なくなった 待合室には暖かいストーブが点いていて居心地万点! 豪雪地帯らしく、駅舎は雪切り室がある独特なもの
訪問日記 2002年1月3日 訪問
ここは、かつて山形・秋田方面のメインルートであった奥羽本線にある。はじまりは大正元年11月1に信号場として開設された。周囲は深い山林で、林業が盛んだっ
たことから集落が出来、昭和16年9月20日に晴れて旅客駅となった。しかし、昭和40年代になると林業も衰退の一途をたどり、この不便な山間の地を離れる人も続出
したが、それでも人々は残された生業で懸命に生きてきた。けれども時の流れは激しく、秋田新幹線が平成9年3月22日に、さらに山形新幹線が新庄まで平成11年12
月4日にそれぞれ開通すると、通っていた優等列車とともに多くの乗客もいなくなった。やがて列車の交換設備も撤去され、対向するホームも使われることは無くなり、
入り口が塞がれた跨線橋がいまも寂しげに残っている。
一方、駅員こそ去って久しいが、出札業務を委託されたおばちゃんが、ひとり駅を守っている。待合室には暖かなストーブが灯っているだけでなく、人間のいる暖かさを
感じることが出来た。駅前は交通量の少ない県道こそ通っているが、メインルートの国道13号は遥か山向こうを走っているため、時折やってくる除雪作業車の音以外、
実に静かな佇まいであった。けれども人家はたった1軒しか見えない。普段であれば、のどかで雰囲気の素晴らしい秘境駅だが、人家が無い理由を委託のおばちゃん
から、まことしとやかに語られたことで謎が解き明かされた。時は昭和50年8月6日。山形県県北部を襲った集中豪雨により、駅のすぐ際にあった50軒ほどの集落が、
折からの土石流により、一瞬にして壊滅させてしまったという。被害は甚大であり、少なからず犠牲者をも伴ったと聞く。いくら屈強な治水工事が完成したとしても、かよ
うな経緯のある土地に住む人は無く、このような秘境駅が生まれてしまった。一時にして成す術もなく生活基盤を根こそぎ壊されたのだから、あまりにも不運な出来事で
ある。
さて、今回は東北秘境駅訪問旅とJR全線完乗という目的のなかで、この駅へ降り立った。当日はもの凄い豪雪で、701系の普通列車が詰まった雪でドアが閉まらなか
ったり、雪を抱え込んで起動不能になったりして、列車は20分近く遅れていた。ようやくたどり着いた時には、すでにお昼時になっており、次の列車まで2時間あまり待ち
時間が出来た。駅舎は雪切り室の付いた二重構造で、豪雪地帯が建物の構造からも伺える。ベンチに荷物を降ろしていると、おばちゃんが私一人のためにストーブを
点けてくれた。しかし、燃料計をみると丁度灯油が切れてしまっていたようで、火が点けた後に灯油を取りに行った。何だか危ない予感…。戻ってきたおばちゃんは、火
が点いているにも関わらず、給油口からドクドクと灯油を入れている! ハッキリいって怖い! 好意でやって貰っていることに水を差すような事は忍びなく、私はおばち
ゃんが手を滑らせてしまった時のことを予測し、傍らに窒息消火用の上着を置き、全集中力をおばちゃんの手先と目線へと向けて臨戦体制へと構えていた(真剣)。
結果からすると杞憂に終わったが、何か事があったらかなり不味かったことは確かだ。そんな大らかさを伴った親切心が、時には重大な仇になってしまう事に複雑な念
を抱きつつ、やはりここは今後の事を考えても、しっかり注意しなくてはいけなかったと、後々に反省したのであった(危乙4保持者なのに情けない)。こうしてお昼時も過
ぎ、空腹を満たすために新庄駅で買った弁当を食べながら話は弾む。強い訛りで聞き取れない部分をあったが、暫しまったりとした時間を過ごした。やがて、次の列車
まで1時間半ぐらいになった時、一旦おばちゃんは車で駅を去った。私は目覚ましアラームをセットしてお昼寝タイムにした。深々と降る微かな雪音を感じながら、少々気
だるい寝起き迎えた。ひとり別の乗客も待合室に現れ、気が付けば委託のおばちゃんも戻っていた。ホームに出てやって来る列車を眺めていると、深い雪に微かなジョ
イント音以外は全て吸われてしまい、ほぼ無音の状態でやって来た。2両の短い列車に乗り込み、曇って視界の全く利かない窓をぼんやりと見つめながら、再び雪深い
世界へと溶け込んで行った。
2007年現在、駅を守っていた委託のおばちゃんは居らず、それとともにストーブも取り外されてしまったとのことです。 ※渡部様、情報ありがとうございました。