2013/11/22 作成
筬島駅
宗谷本線 筬島駅 遥か遠くへ延びる鉄路に心が躍る
貨車を再利用した駅舎はきれいにリニューアルされていた 上の写真は名寄方面、そして稚内方面。どちらも山がそびえる 駅名標は礼儀正しい駅の名札である
明るい時間なら去りゆく列車に寂しさはない 駅前広場に以前使われていた駅名標が立つ。左側に神路の表記も! 彫刻家の砂澤ビッキ記念館がある
訪問日記 2012年10月6日 訪問
北へ延びる宗谷本線。起点の旭川を出ると、途中の名寄と士別のほか終点の稚内にしか行政上における市はない。隣駅の音威子府はかつて天北線が分岐していた主要駅で特急
列車も停車するが、音威子府村(むら)の中心地でしかない。さらに稚内方面の隣は佐久という駅だが、駅間は何と18kmにも及ぶ。あまりに不自然なほど長いが、かつては途中に神
路(かみじ)という駅が存在した。ひとまず筬島駅を紹介する前に神路駅の話から始めよう。
そこは1922(大正11)年11月8日、国鉄の一般駅として開業。列車交換が可能な2面2線のホームと、駅員が住み込みで勤務していた駅舎があった。その後、1977(昭和52)年5月25日
に信号場へ格下げされたが、仮乗降場として旅客扱いは行われていた。そして1985(昭和60)年3月14日に廃止されている。確かに人の営みがあったが、それも1965(昭和40)年頃ま
でのことで、全戸が離村したのには決定的な理由があった。もともと鉄道以外の交通機関がなかったが、1963(昭和38)年3月に天塩川の対岸を通る国道40号線との間に「神路大橋」
が完成した。だが、わずか9ヶ月後の同年12月18日にこの地区特有の季節風により落橋。以後、橋が建設されることはなかった。結果的に、最後の住民となったのは信号場に勤務す
る国鉄職員であったのも皮肉な話だが、合理化により列車交換が無くなってからは完全な無人地帯となった。現在、神路のあったところを含めて筬島〜佐久間に人家はほとんど存在
せず、もちろんアクセス道路も無い。「幻の秘境駅」と称して興味本位で訪れる人もいるようだが、元駅舎を半分に減築した保線小屋も、2005(平成17)年5月に保安上の理由から解体
された。いまでは一帯は完全に更地となり、列車交換の分岐器の名残の“曲がり”が見られるだけに過ぎない。さらに羆(ひぐま)が出没する情報も数多く、列車の運転士から目撃され
れば通報される可能性も否めず、決して訪問してはならない場所のひとつである。
前置きが長くなった。筬島駅の話に戻ろう。貨車(車掌車)をリサイクル改造した待合室は、チタン色にリニューアルされて非常に精悍なデザインだ。内部も丁寧に塗装され、まだまだ
現役で使われそうだ。もとは2面2線を有する列車交換が可能な駅で、切り出した木材を積み込む貨物用の側線もあったが、現在は1面1線の単式ホームだけになっている。駅前から
見降ろすゆるやかな平地に数軒ほどの人家が見える。だが、廃屋も見られ、3軒しか居住していないようだ。駅は1922(大正11)年11月8日、先の神路駅とともに開業。1977(昭和52)
年に貨物取扱い、1984(昭和59)年2月に荷物取扱いがそれぞれ廃止され、1986(昭和61)年11月に無人化されている。やはりここでも過疎化の影響は甚大で、1992(平成4)年度の
利用者数は1日あたりわずか2人で、廃屋が見られる現在では、さらに減少したものと思われる。
そんな寂しいところだが、かつてここに砂澤ビッキという著名な彫刻家が居住していた。彼は筬島小学校跡にアトリエを構え、1978(昭和53)年から1989(平成元)年に亡くなるまで精力
的に活動していた。以前、音威子府駅前に建てられた大きなトーテムポールは彼の作品である(現在は老朽化のため撤去)。活動の軌跡を集めた「砂澤ビッキ記念館」が徒歩数分の
ところにあり、開館時にはぜひ訪れたい。かくいう私も来館者のひとりになったが、あまりの迫力と芸術性の凄まじさに言葉を失った。まさに大自然を体現したような描写に心底を打た
れた。現在は息子(砂澤陣)さんが現地で後を継いて活動しているようだ。秘境駅といえども珍しく見どころがあり、ふだんは駅だけに没頭しがちだが、これほど散策の楽しい駅も数少
ないのではないかと思う。